人生

やっていきましょう

994日目

自分は表現者としての重要な何かを失った。それは自分の内面の奥底にある美的感覚に対する根本的な信頼である。それを至善ものと盲信し表現に明け暮れる人間を芸術家とするならば、今の自分はその対極にあるつまらない人間である。

自分が表現者を自覚するならば失ってはならないものだった。どれほど世間から逸脱した考えであれ、誰もその良さが分からないものであれ、それらはずっと守られる必要があった。なぜならそれが表現に芯を与え、表現者独自の演出を可能にするからだ。

自分は、自分の表現に対してもはや何の自信も抱くことができない。自分の感性を素朴に信じられるような人間にはなれなかった。なぜそれが自分にできなかったのか。おそらく自分自身と呼べる何者かの存在はとうの昔に死んでいたからだろう。殺したと言った方が妥当か。

自分が自分であることを直視できなかった人間は決まって自分のようになる。人間不信で、冷笑的で、虚無的である。そうなってしまったのは、自分を殺すことで世間に適応しなければならないという思い込みが強すぎたためだ。ほとんど妄想の域に近いほど、自分の価値観は否定されなければならないと思っている。その理由は誰かにバカにされる、誤解される、怒られるというもので、ほとんどが幼少期のネットのトラウマから来ているのではないか。

数ある芸術家はふてぶてしいほどに歪んだ自己愛を抱いている。ほとんどゴミのようにしか見えない絵だろうとこれが芸術だと言い張っている。それを自分はまったく理解できないわけではない。かつて同じように自分でゴミを作り、自分で賞賛していた時期があった。その当時は自分自身に信頼があったという点でまだ健全だった。

今ではもうその感覚を抱けない。おそらく当時の自分もそれほど酷かったわけではないだろう。しかし今の自分からすれば、何を作ってもゴミにしか見えないのである。

大学時代、当時の自分を再び取り戻そうと真剣に考えていた時期があった。創作を始めたのもそれが理由だ。不安定な自己を繋ぎ止める何かを自分は求めていた。しかしそれが呆気なく頓挫し、今ではもう思い出したくない過去である。

自分が自分であろうと欲したところで、かつての自分は度重なる自己否定の末に既に死んでいたのである。そうした現実を受け入れられずに、自分の価値観の復活を今でも信じようとしていた自分は今までの人生の中で最も惨めであった。こうした事実誤認の結果、過去の自分を肯定するために今の自分を否定することになり、ますます自分が分からなくなった。丁度その頃タイミングよく人生の不運が重なり、すべてに耐えきれなくなって自分を取り戻そうとする無駄な試みを完全に諦めた。

それ以来創作と向き合うことを恐れるようになった。創作をする度に中身の無い自分を必死に誤魔化そうとした過去の自分が脳裏によぎるからである。承認欲求に飢えた自分の自信の糧にしようとして、あわよくば他人からの賞賛を得ようとして、下心を隠しきれなかった自己の、しかしそれに見合うほどの表現が生み出せなかった自己の悲痛な思いが蘇るからである。

しかし必ずしも承認が創作の動機である必要はない。承認などハナから期待しなければ創作の自由度は極端に増す。その自由が面白かったからこそ、小さい頃の自分は稚拙ながら創作を好んでいたのではなかったか。自分の創作の原点は価値観の迎合ではなくその反抗にあったはずだ。

自分の表現に自信がないのは、どこかまだ他人の評価を気にしているからだろう。しかしそれでは日和見の凡作が生まれるだけではないか。そうではなく、自らの課題発見とその解決によってのみ作品と向き合い続ける必要がある。それが結局は自分を本来の自分に近いものに戻すということに気がついた。

今でも自信喪失については変わらないが、しかし自分の課題と向き合うことで自信がついてくるというのは何となく分かる。他人と比較して焦りを感じたり、他人に承認を求めたり、逆に他人を恐れて過度に否定しているうちは何も変わらない。世間や他人に振り回されず、自分自身の課題にのみ注目しそれを解決することが、自分に確かな自信を与えるように思う。これは創作に限らず人生全般についても言えるだろう。