人生

やっていきましょう

440日目

次の一文に目が留まった。

読書筋とは書いてあることを書いてあるままに読もうとするさいに使われる筋肉のことである。これが衰えるとどうなるかというと、何を読んでも自分の知っていることしかそこから読み取れなくなる。果ては世界のすべてが既知であるような錯覚にとらわれ、周囲にあふれる宇宙の神秘を素通りしたまま短い命を燃やし尽くすことになる。

哲学探究を読む(1) - Redundanz

この視点は重要だ。読書についてのこれまでの態度を深く反省させる。未知の情報に相対するとき、既知の情報との関連を通じて自らの考えを「確認」するだけという読み方は、おそらく適切な読書とはいえない。これは読書というよりはむしろ連想に比重を置いている。自分の読書はほぼこちら側に位置する。

上記の引用文はこの態度の脆弱性を暴いている。つまり読書において、既知の情報の参照しやすさ(つまり「わかる」という感覚)を重視するあまり、自らの知る文脈を通じてしか本を読むことができていないということだ。これは読む側としてはほとんど当たり前で気づきにくいことかもしれないが、実際は新しい知見という芽を摘む行為に等しい。

たとえば自分は数学や科学について書かれた本をほとんど理解できていない。それは、それらの知識が既知の文脈からはほとんど導きだせない問題だからだ。名だたる古典や名著とされる本についても同様のことが言える。そこに書かれている問題意識を自分が共有していないので、結局は「よくわからない本」として流し読みをする羽目になる。

書かれている文章をその通りに読まず、また読むこともできないまま、古典を読んだ、名著を読んだ、とゲームの業績のように自分はよく思い込んでしまう。例えば自分はドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだ、ケストラーの『真昼の暗黒』を読んだ、サルトルの『嘔吐』、カミュの『シーシュポスの神話』を読んだ、というように宣言することはできる。だが事実を言うと、自分はそれらを読んだというポーズをしているにすぎない。より悪意のある言い方をすれば、ただ流し読んで部分的に理解した(と思っている)だけの本に、読了の二文字を与えてこれ以上読まなくていいという方便を与えているようにも思える。

別の引用がある。まったく別の問題だが今日の話題に関連しているように思う。

 「記憶をただ再生する」ということ、「現在の状態から次の操作を動的に決定する」ことが「難しくなる」ということ、というのは機械に限らず読書もそうなのではないかと思う。

未知の情報から既知の情報しか引き出せない、というのは自分の記憶をただそのまま再生しているということにすぎない。その再生は予め決められたものであり、自分の頭の中にある文脈をただなぞっているだけという点で静的であると言える(こじつけかもしれない)。こうした単純な反復をもってしか情報に関わることができなくなるというのを「老い」と呼ぶのだとすれば、いまの自分は明らかにその兆しが出ているように思う。

読書ができないという問題。それは前提知識の有無や著者・翻訳者の説明不十分に由来する以前に、自分が読書から既知の情報しか引き出せないということである。この解決は先の引用が明らかにしている。つまり「書いてあることを書いてあるままに読もうとする」こと。これがなかなか難しい。昔は辞書があった。今はGoogleがある。だがそれにしてもいちいち読書を中断し調べる気にもならない。

だが読みを鍛えるという意味では、適度にそうした読みを試みても良いかもしれない。そうした読みが可能になってくると自分の読書の質と幅が広がると思う。かなり難しいことだとは思うが、少なくとも何を言っていて何が問題にされているか、ということは意識できるようにしたい。分からない単語はその都度検索していきたい。