人生

やっていきましょう

487日目

久々に長距離を走ったが体が相当鈍っていた。身体が重く感じ、すぐに息切れを起こした。今日は10km走ったがそれだけで体力が限界を迎えた。以前はそれだけ歩いてもまだゲームで遊ぶことができていた。自分では気づかなかったが、この数週間で相当体力が落ちている。定期的に運動をする必要がある。

走りながら自分にとって目を背けたい不都合な事実がないか考えていた。ひとつ気付いたのは、自分が物事が変化しているという事実を見落としているということだった。特に自分の力量が不変のものであると錯覚しているところがあり、かつてはできていたことも今ではできない可能性を全く検討に入れていないという問題がある。

たとえば自分はかつて勉強していたことに少なからず自負を覚え、勉強だったらいつでもすぐにできると思い込んでいるが、実際は自分の勉強に対する適性は徐々に摩耗しており、記憶にそのまま残っている「できる」という妄想を現実のものだと思い込んでいる。都合の良いことに自分は暗記が最も苦手であったという事実を忘れている(今でもできないものはまったくできていない)。

反対に自分がいつまで経ってもなにもできない人間だと思い込むことがある。ある適切な努力をした場合に、それ相応の結果がかえってくるということに信頼が持てていない。あらゆることが不可能であるわけではないということは今までの経験から分かっている。時間を経て、前にはできなかったことが今ではできるようになっていることはいくつかある。

また他人は変わるという事実を見過ごしている。自分がこの1.2年間(場合によっては大学を含めた5.6年間)努力しなかった間に着実に実力をつけている人間が大勢いる。自分はこの事実から目を背け今にも崩れそうな自己を正当化することに躍起になっていたが、事実として自分は何もしなかったのであり結果として自分の抱く印象以上に能力が欠けた人間であるということが明らかになっている。その間に多くの人間が変わっていった。成長した者もいれば堕落した者もいる。

自分は老いたということだろうか。あまり変化についていけなくなっている。自分がこうだと思い込みたがっている世界が自分に固着し、その世界にとって都合の良いものは好ましく思いそうでないものは切り捨てようとしている。明らかにこの傾向は年々強まっている。

だがそうあることを自分が望んでいたのではなかったか。不安定な自己を安定させたがっていたのは自分であり、その結果として自分にとって都合の良い世界観を部分的には構築させている。結局のところそれは事実の誤認だが、結果としてそう思い込むことによって安定しているところもある。

自分の安心は確保すべきだが、どこかで安心を切り崩していく必要があるだろう。安心を第一に考えたとき、安心に関わる妄想を否定することは難しい。自分が目指すべきものは安心ではなく、安心を土台に何を挑戦するかであるということを強く意識することが必要だ。そのために自分都合の勝手な思い込みに支配されるのではなく、そうした傾向や自分に不都合な事実から目を背けないことが重要だと思った。