人生

やっていきましょう

544日目

自殺について考えるのが面倒で、最近では意識することもなくなった。自死に対する結論は今のところ、死ぬことによって救われる「自分」はどこにもなかったということで決着がついた。生と同様に死を求める理由が自分にはない。それゆえ自分は、身体の生きようとするはたらきに任せてただ生きている。

この状態について、自殺をする勇気がないから楽な方向に流れているだけだ、自分の本心は生存に関する事実と不条理を激しく憎悪し自分の都合に浸りたいのだ、という反論がある。否定はできない。今からでも自分の本心を呼び戻し、自分がこれまで味わってきた苦痛を爆発させた方が良いのかもしれない。

しかし、かつてそれを素朴に望めたかもしれない過去とは異なり、今の自分は何につけても虚しさという感情を自らの選択と比べなくてはならなくなっている。0に何をかけても0であるように、自殺という選択もまた生と同様虚しいものである。

このような生き方は端から見てもつまらないし、何より自分自身も面白くない。自分はそうあることを望んでおらず、満足もしていない。だから毎日「続きを見せろ」と自分に言い聞かせているが、自分の出す答えはいつも「悩んでいる」だ。この調子が既に1年以上続いている。

自分の記録はこの虚しさのループから必死に抜け出そうとして始めたことだった。だが今となっては、自分はループを回すことしかできていない。人生の虚しさから始まり葛藤で終わるだけのつまらない記録をただ量産している。もはや作業に近い。以前は思考の整理だという詭弁も成り立ったが、今ではもう十分整理され尽しており「人生が虚しい」「自分がどこにもない」「何をどうしたらいいかわからない」といったかつての素朴な発見は、とうの昔に色あせている。

自分は自分を救おうとしてこのような愚行をしているのだろうか。だとすればこれ以上治る見込みがないという現実を、いい加減見つめるべきではないだろうか。この調子で記録をあと5年10年繰り返したところで、同じように虚しさと葛藤を吐くだけだということは目に見えている。自分もいい加減、腹をくくる必要があるかもしれない。