人生

やっていきましょう

578日目

何かの言葉を読む時、とくにその意味がわかりにくい時は、自分はその言葉の意味を正確に把握しようとする。だが一方で、何かの言葉を書くとき、自分は読んでいた時ほどの注意深さはなくなり、雑な感覚に基づいてなんとなく言葉を選んでしまう。

書くという行為と定義するという行為は、自分の中では親和性が低い。自分が何かを書くときは、ほとんど直感を書き写しているだけで、言葉の意味をほとんど考えていない。

おそらく自分は言葉が読めている時では、書く時と同様に意識をあまり向けていない。問題は理解ができなくなった時で、この場合読む際には不明点に注目しその言葉の意味は何かを考えるという目標が設定できているのに対し、書く際にはその言葉を無意識的に回避することによって直感の広がりを維持する。だから言葉の意味を事前に考えながら文章を設定するということがほとんどない。

これは書くときに限らず話すときにも同様の結果になる。要するに自分が自分を表現する際にはその言葉の意味をあまり考えられていない。

だがこの思考には明らかな問題がある。これが自分に向けられた、あるいは自分都合の表現であれば、後から自分で振り返り、読解している時と同じ目線で自分に批判的になり直感の欠点を修正していけばいい。だがこれが他人の都合と関わった場合、他人は自分の検討不十分な直感を自分の考えと思い、その思考の浅さをもって自分という人間を評価する。

直感というのは現実の都合に依らず、ある時偶然的に降ってくる。またその直感は自分の状況と関心によって常に変容し得るので、後から言おうとしても何を言おうとしていたかすぐに、そしてほとんど完全と言っていいほど忘れてしまう。丁度夢から醒めて自分が何を見ていたか忘れてしまうのと同じだ。

直感に基づいてアイデアを生み出す。これを自分は思考と呼んでいたが、これは思考というよりは連想と呼んだ方が良いものだった。

多くの賢い人間は、自分がまさに言葉の不明点において意味を厳密に考えようとした批判的思考を、おそらく自発的な表現の段階においても用いることができている。彼らは自分の表現すべき内容や方向性をあらかじめ計画し、自分で管理し操作できている。

なぜこのようなことができるのか。それは彼らが自らの思考や判断を直感にではなく目的に委ねているからだ。彼らには目的を定めるということが第一にあり、その目的に範囲を限定して要領良く行動や判断を行うことができている。

自分は範囲を限定しない。どこからでも直感が来ても良いように自分を偶然に向けて開放してある。だから社会や他人の都合とはどうしても合わなくなる。自分は直感に基づいて表現する時間があまりに長く、目的に基づいて表現する能力が人よりも劣ってしまっている。

自分が社会に適応できないのは、この問題があるからだろう。自分が会話や面接を極度に嫌うのは目的を前提として常に思考を行なっている安定した思考形態ではなく、偶然や直感に自分を委ねた外れの多い不安定な自分の思考形態を総合的にではなく一面的に捉えられるからだ。

だが考えてみれば人間社会はそうした危ない人間を事前に弾くことができている点で成功していると言える。集団活動において不安定な人間はリスクでしかない。人は自分の上限を自分の実力と思うが、他人は自分の下限を自分の実力と思いやすい、という話を以前聞いたことがある。実際そうだと思う。自分の思考の欠点を考えれば、とても他人が信用できるものではないと思う。

自分が学ぶべきことは自分の表現を自分が操作できるレベルにまで落とし込むことである。おそらく自分は自分の思考力では到底コントロールできない問題が直感によって偶然的に解決されたことをもって自分の実力であると見誤っている。だがそれは結局は偶然であり、再現性のないものだ。思考の下地には直感による連想だけでなく、目的に基づいた分析もまた必要である。

自分が1回の表現において、目的を設定し安定した内容を表すことできるレベルにまで、一旦自分の言葉の情報量を落とす。目的に沿わない情報はカットし、自分が限定した目的の範囲内で現れる情報だけを吟味する。こうした訓練が自分には必要だ。もちろんこんなことを自明に行なっていてはアイデアが降ってくることはない。だが自分には最低限の社会参加ができるほどの安定した思考が必要だ。