人生

やっていきましょう

691日目

他者に気を煩わされるということがほとんどなくなった。他人が何を考え何を好み、自分にどのような印象をもって評価しているかということについてもうあまり関心を抱かなくなった。他人に期待をしなくなったからだろうか。

最近よく思うのは他人とは分かり合えないということだ。関心も違えば見ているものも違う。言葉の捉え方ひとつを取っても違った解釈をする。だから他人に自分を分かってもらえると期待するのは愚かだと改めて認識した。そう考えると他人がただの背景のように映る。

他人に期待していないからこそ、他人と距離を取って関係を持つことができている。この距離感が実は健全な人間関係を生み出していることに自分はこれまで気づかなかった。無駄な取り越し苦労もなければ後悔もない。自分の善意が相手に理解されない苛立ちもない。

他人に期待し始めると歪んでしまう。全体的に見れば自分の都合に相手が合わないことへの不満に帰するのだが、そう簡単に相手の都合が自分に合うわけがない。たまたまうまく合う時がある、くらいに思っていた方がいいだろう。常に合うと思わない方がいい。

1年前はこの認識が不完全であることに悩んでいたが、今では自然にそう思えている。どれだけ親しい人間であれ、他人は意思を持つ独立した存在なのである。

今の自分はこの他者の独立を尊重することができている。そうすることが、翻って自分の他者からの独立を正当化することになる。他人が自分を見てどう思うかという不安、他人に歓迎されないことへの恐怖は、いずれも他人の都合に圧倒されて自分が自分の都合で生きる主体であることを忘れさせる。

他人は自分をどう思ってくれても構わない、自分も好き勝手他人を評価するという自由の正当性によって、自分自身に自分の都合を行使する権限を与えることができる。しかしこれを成り立たせる為には他人の都合に屈しないほどに強い自分を持たなければならない。これこそ昨年の自分に欠けていた要素だった。

今の自分は一方的に他人の都合に支配されるようなことはなくなり、他人の都合にある程度理解を示すが、自分の都合と照らし合わせ干渉に無理が生じるようであれば自分の都合を優先させるようになっている。自分が必要と判断した場合には自分を優先させるほど自分は強くなったと感じる。

だがそうなるといずれ自分の都合と他人の都合が衝突することになる。今の自分であっても衝突は極力避けたいと思っている。この判断は無理に変えなくても良い。重要なのは時には戦わなければならないこともあるということを理解することだ。そしていざとなったら自分を守るために戦う必要がある。

自分と相手の都合が衝突したとき、とにかく自分の要求を明確にしておくことが重要であるように思う。他者に理解を示すことで、だったら仕方ないと思いいつも自分の要求を相対化してしまうが、そうするよりも前に自分の都合が本来何であるかを明確にする必要がある。なぜなら自分自身が自分の都合を理解していなければ、他者の都合よりも自分の都合を優先させることの正当性を失うからである。

だから自分はこの1年、自分の要求を誤魔化さず明確に理解した上で必要と判断した場合にはその要求を突きつけ戦うことができるようになるということを目標にする。