人生

やっていきましょう

小さい頃から他人の考えが分からなかった。他人が自明としている言葉の意味、範囲がどの程度のものか考え始めると、色んな可能性が思い浮かんでどれが正解か分からなくなった。自分はそれが怖かった。

もっと恐ろしいのは、その事実がありながら怯えているのは自分だけで、周りは堂々としているということだった。自分は過剰に他人の意図や言葉の範囲を警戒しているのに対し、他人はただ自分の常識が正しいと思い込んでいる。それを不当だと自分は訴えたいが、自分には信仰がなく、彼らにはそれがある。

こうした構図により他人との対立を極力回避してきた自分だが、その代償に自分の中の主体性を失った。自分はいつだって他人の考えに合わせて生きてきた。それは衝突を避けたいだとか、誤解を与えたくないだとかいう思いがあってのことだ。その特性は小学生の頃から既にあり、もはや一生治ることはないだろうと思う。

自分はなぜここまで不当な扱いを受けなければならないのか。なぜ自分だけが言葉の可能性に振り回されて解釈の断定ができずにいるのか。なぜ自分は自分の常識が誰かの常識であると信じられないのか。それは結局のところ、自分の物差しをかけて他者に立ち向かうということを自分がしてこなかったからではないか。

闘争という観念は自分にとって比較的新しい気づきであった。自分の半生は他人に対する奉仕で占めていた。他人を生かし自分が我慢する。そうすることで表面的な問題は何も起こらなくなる。しかし異なる存在に遭遇したとき、なぜ自分は自分を貫くという道を選ばなかったのか。自分は何も考えていないわけではない。むしろ考えすぎているほどである。その思考が他人を前にするとすべてが無為と化す。他人に対する譲歩という生存戦略が、もはや自分の意識を超えて刷り込まれているからだ。

自分は自分の考えることが正しいと信じて、他人と衝突すべきだったのではないか。自分の恐怖の大半を占めているあの空想の存在ではなく、現実の他者とぶつかって、自分の思考の正当性の距離感を掴むべきではなかったのか。その結果敗れたとして、やっぱり他人の言いなりになっていた方が良かったと思うだろうか。道を大きく踏み外せばそうとも思えるかもしれないが、大抵の場合そうはならないだろう。

他人と決別し対立することは本当に難しいことだと思う。それはそのまま、自分のこれまでの生存戦略を否定することだからだ。自分は善き人間であろうとした。対立を起こさないように努めた。他者を理解しようとした。そのために自分の言い分を抑えてきた。その結果自分は僅かな安寧を得た。これを捨てるというのは相当の覚悟がいる。

だが自分は、これまでだって戦ってきたのではないか。自分の意志や主体性の障害となる多くの他者に対し、どうにかして自分の正当性を勝ち取ろうとしてきた。それは自分が臆病であるために、現実の形として顕在化することはなかった。しかし自分は考え続ける、言葉を書き続けるという形で自分を取り巻く不条理と格闘してきたのである。そのことは決して無駄ではないと自分に言い聞かせる必要がある。

学校で自分は対立せよ、喧嘩せよと教育された記憶がひとつもない。教えられるのは従順さだけであり、自分はその模範だった。しかし自分の考えをもって異なる人間とぶつかることができない人間は、社会でうまくやっていけるはずがない。自分の現状を見ればよくわかる。

自分は自殺をしないと決断したあの時から、自分を他人のものではなく自分のものにするために生きている。あの時自殺をしていたら、自分が自分のものでないまま死んでいた。他人に振り回されて自己を確立できずに終わる人生だった。しかし自分はそれに満足できなかった。自分は他者という呪いを克服するまで死ぬことができない。

他者を克服することは難しい。しかし自分は少しずつ乗り越えていく。誰のためでもなく自分のためにやる。