人生

やっていきましょう

自分の対人恐怖の根源は、話の通じない人間による一方的な主張を誰であれ一身に受け止め続けてきたということに由来する。話が通じないというのは単に自分と価値観が異なるという意味ではなく、そもそも自分の言っていることを相手が聞かない、理解しようとすらしないという意味だ。自分は他者との対話を望んでいたが、ついにその機会を得ることはなかった。

自分の投げるボールはひとつもキャッチしてもらえず、相手が投げて来るボールはすべて受け止めるという関係を自分は大半の人間に対して築いてきた。その結果、自分の身の回りには自分の話がしたいだけの人間、自分の理解が絶対であると思い込んでいる人間ばかりが集まった。その頃から自分は他人が怖くなった。他人はこちらの意見を封殺し自分の意見を押し通す存在というイメージが形成された。

こうした対人不安を抱く一方で、もしかしたら自分の理解力が足りないことが原因かもしれないと考えるようになった。そこで自分は可能な限り他者を理解しようと努めた。こうした態度は自身の社会性を育む上である程度の意味があった。自分と他者は異なる前提を有しており、自分の前提を押し通すだけでは対話は成り立たないということを学んだ。だから自分は自分の意見を言う時には、他者とは異なるという前提を常に持ち、相手の異なる意見を(仮に賛同できなくとも)可能な限り尊重するようになった。

だが次第にそうすることが苦しくなってきた。自分の意見を言いたいだけの人間が胡坐をかいていて、自分だけが相手に意見を合わせようとしているというのが理不尽に思えたからだ。自分と相手の話がかみ合わなくなった時、自分の他者理解の努力に反して相手は己の理解や見方を変えずにいる。自分が間違っているかもしれないとは思わない。この種の人間が1人や2人ではなく、どこにでも結構な人数がいる。

それで自分は他人と関われなくなった。今でも他人とどう関わっていいのかが分からない。また相手が一方的に自分の関心ごとを話すのを我慢して聞き続けなければならないのかという不安が起こる度に、自分は他者との距離を離してしまう。そのことでパニックを起こすことはもうないが、自分はこれから先も他人とうまく関わることはできないだろうと思う。

結局どうすればよかったのか。今思えば自分の話しかしない人間、相手を理解しようとしない人間とは初めから関わらなければよかった。これは自分の弱さだった。自分が苦手とするこれらの人種は、一定の人間にとっても苦手な存在だということが最近分かってきた。彼らはそうした人間に遭遇したら自然に距離を取るようにしていた。

自分はと言うと、誰であれ相手に不誠実な態度を取るまいと意地を張っていた。それが己の強さだという傲慢もあった。しかしその結果が、自分の関心しか話せない人間、理解力の欠落した人間による不完全なコミュニケーションの受け皿になるということだった。こうした人間に対して自分は対立する、拒絶するという態度を取ることができなかった。

自分は自分を守るために、もっと自分に都合よく生きて良いという前提を持つ必要がある。相手の話を聞くという誠実な態度はこれからも続けるだろうが、自分の無理の上に成り立つ関係を維持しようとするべきではない。自己本位であることと、他者に誠実であること、そして自己批判的であることはすべて同時に成り立つ。

自分は他人の理解力、包容力というものに期待を持ちすぎている。つい自分は他人は自分の話を分かってくれると思ってしまう。しかし他者とは人であり、自分同様、彼らの能力の限界に従って日々活動を行っている。だから理解力が欠落していることも、自分の話しかできないということも当然起こり得ることである。その度に自分が傷つき不安に苛まれていたのでは、自己を確立して生きていくことなどできない。