人生

やっていきましょう

816日目

急遽山に登りたくなり日帰りで山に行くことにした。結論から言えば山登りを甘く見ていた。休憩地点がいくつかあったが、そこに着く度に身体の痛みと苦しさが増して行った。

序盤に勢いよく駆け登って行ったら息切れを起こして倒れそうになった。道中のベンチが見えたら必ず休むくらい苦しかった(この時点で山に来たことを後悔した)。

途中から歩くことには慣れてきたが、休憩地点間近で突如片足のふくらはぎに激痛が走りしばらく歩くことができなくなった(おそらく腓返りであるように思う)。ここで下山することも考えたが、休んだら痛みが少し退いたので歩くことにした。それでも激痛が頻繁に起こった。

しばらくしたらもう片方のふくらはぎにも激痛が走った。更には膝付近に新たな痛みが加わり、終盤には酸素が薄くなって息があまりできない状態にあった。この時自分は弱気になり、誰かに助けて欲しいとさえ思っていた。しかし周りには誰もおらず、自分で何とかしなければならないと思った。

山道のゴールには大きな寺がある。ここから更に上には山頂があるが、ふくらはぎが限界だったので断念した。一般的にはこの寺が終着点である。参拝を終え、自分の成したことを振り返った。ここまで上り坂しかなく5時間かかった。痛みと苦しみを背負って自力でゴールまでたどり着いたことには誇りを覚えた。

ここで終わりであれば良いのだが、ここから更に下らなければならない。帰りは下り坂なのでふくらはぎの痛みはほとんどなかった。ただブレーキをかけながら坂道を下るので、爪先にかかる圧力が結構強く痛い思いをした。

終盤に差し掛かると辺りも暗くなって来る。この時既に食料が尽き始め、ただ腹が減ったということしか考えられなかった。この頃から意識が定まらなくなってきたが、どうにか下山することに成功した。帰りはマクドナルドを食べて休んだ。

山に登ったことで実感したことは、自分がいま生きていると思える瞬間は、痛みを感じている時だということだ。自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなっていても、身体全体に痛みを感じている時は少なくとも生きているとは思える。痛みに対して治癒を求めるという本能に近い生への渇望が自分の中にあるということに驚いている。

山登りは自己破壊衝動によって引き起こされる自傷行為だと随分前に書いた記憶がある。今でもそう思う。登山の原動力は自己否定にある。そこで痛みと苦しみを覚え、何か自分の考えに新たな影響を与えたい。それが山に登る動機である。