人生

やっていきましょう

522日目

ゲームの資料を整理するために、5年前に自分がネットに書き込んだコメントや文章を確認した。5年前といえば大学1年の頃だが、今とはまったく違う性格をしていたことが分かり、少し恐ろしくなった。

どういう人間だったかというと、とにかく面白い人間になろうとしているようだった。ネットのスラングをよく使っていて、言葉遊びを楽しんでいた。そういう自分に変な自信を持っており、言葉には横柄さが漂っていた。

率直に言って、今の自分からすればどれもあまり面白いものとは言えなかった。謙遜からでも、気恥ずかしさからでもなく、ただ本心から言ってうすら寒かった。それは自分が笑いを通じて「こんな面白いことが言える自分」に酔っていて、実際に面白いかどうかをあまり考えていないということが、うっすらと分かってしまうからだ。笑いに酔うことは必ずしも間違っているとは言えないが、酔っているうちには自分でつくったものの面白さが本当に妥当なものであるかどうかの判断がつかなくなる。

中年以降になると親父ギャグを言う人が増えるということをしばしば耳にする。親父ギャグを言う側にとっては本当に面白いものであるように思われているようだが、聞かされる側にとってはあまり面白くない。これは親父ギャグを言っている主体が、自分の笑いに酔っているだけで、実際がどうであるかを考えないから面白くないのだ。

トイレに誰かが行きたがっていたとして、そのときふと「トイレに行っといれ」で韻が踏めることに気づいたとしても、またその言葉を言うタイミングがまさに今だと分かっていたとしても、冷静に考えれば何の脈絡もなく唐突に使い古された常套句を呟く行為があまり面白いものではないという予測が立つものだが、そうはならず衝動に身を任せて言ってしまう人が多いのは、要するに自分が面白い人間だとなまじ思い込み、自尊に没入するあまり面白さの分析を怠っているからに他ならない(相手のエゴイスティックな動機ほどつまらないものはない。例えば誰かの自撮り画像などを考えてみるといい)。

何も考えずインターネット構文を使って笑いを取ろうとする人間も同様の末路を辿る。構文は所属する集団内での可読性を保証し笑いのお約束を受け手に与えてはくれるが、笑いというものはそもそもギャップから生じるのであって、あまりに使い古されたネットの定型文は親父ギャグと同じ轍を踏むことになる(当然、安易な自虐もそれに含まれる)。

偉そうに言っているが、自分もそういう人間だったのだ。段々と思い出してきたが、自分は自分の中にある面白さを妄信していたために、親父ギャグやインターネット構文のような出来合いの笑いを雑にばら撒いては悦に入っていた。それはそれで構わなかった。今でさえ否定すべきことでもないのかもしれない。ただそれがあまりに自己陶酔的で、実際の面白さとのギャップが激しいものであったから、自分は後々惨めになり、ひどくつらい思いをした(そのギャップこそ露悪的に笑いに変えれば大したものだったが)。

今の自分は、自らの笑いの感性についてほとんど信じていない。いま確かに言えることは、自分は易きに流されやすく、尊大になりやすく、直感を妄信しやすいということだ。何度も繰り返すが、笑いに酔うことは必ずしも悪ではなく、むしろある程度必要なものだと考える(そうでなければ、所謂「ユーモア欠乏症」になる)。だが笑いの自己陶酔による暴走に突き動かされ続けると、自分の面白さを制御できず、稀に生まれた光るものの背後に、無数の死体が山のように積みあがる(これはつくづく直感の弊害だと思う)。

笑いの混沌を食いとどめ実際の面白さを追求できるようになるためには、とりあえずはユーモアを信じた上で、更に吟味や工夫が必要であるように思う。以前と比べて、ある程度方向性を定めた上で自由な発想ができれば、と考えるようになったのが最近の自分だ。完全な自由状態にはむしろ制限があり、制限ある自由には自由があるという逆説を、今一度思い起こしている。

ここまで散々書いてきたが、本当につまらない文章だと感じた。自分は暴走の反動からリアリストに転向し(どこかで聞いたような話だ)、ひどく笑いの感性を失ってしまった。今回の文章も現実に寄せて書かれたものであり、味気の無い報告だと思った。

5年前の文章を見て驚いたのだが、今の自分が見て気が滅入るほどにつまらない文章に、実際に面白がってくれている人が当時何人かいた。何がそこまで面白いのかまるで分からなかったが、とにかく面白がってくれていた。

今では自分の文章を面白がる人間など誰もいない。こうして現実的な文章を毎日書くよう努めているからだ。事実を明らかにしたところでなにも面白くはない。

既視感がある。以前どこかで同じものを書いたかもしれない。