人生

やっていきましょう

1122日目

Aということを主張するならば同様にBということを主張していなければおかしい(ゆえに一貫性がない)という意見を度々耳にする。この意見は理に適っているが、どこか不快に感じることがある。

つまり自分が思った意見についてこれが正しいと納得していたのに、その納得を突然引きはがされて自らの自明さを奪われてしまったこと、あるいは単に自分が気持ちよくなっていたのにそれを中断させられたことに対する怒りや不安が自分の心の中に湧いて来るのである。

いうまでもないがこれは自虐である。自分は多かれ少なかれ、合理的であるように見せかけて実は合理的ではない。他人に対して自己正当化をしなければならないと感じるし、そのために理屈以上に信念や感情を優先させてしまうこともある。Apexで負けが続いているときなどはまさにそうだ。

しかしこの不快感を過度に正当化してはならないと感じる。例えば、自分は自分の中で納得している信念に満足していたのに、合理主義者たちによってその満足を踏みにじられた。その時感じた苦痛や怒り、不安には正当性がある。したがって彼らの言うことに耳を貸す必要はない。すなわち合理性の観点以上に、自身の感情の快不快が優先されるべきであると考えること。このような発想からは、自分の妄想の世界の外を知ることはできない。

自分は合理主義者たちの正誤判断によって多少なりとも快不快は覚える。だがそれはそれとして彼らの主張に一定の理があるとするならば、自分は考え修正し、より妥当性のあるものに発展させなければならない。自分は少なくともこう考えるので、おそらく合理主義者の部類に入るのだろう。

しかし他方、感情的な納得や自身の正当性を求めてしまう自分もいる。ついうっかりしてしまうと、自分の間違いを認められずに他人の不都合を責めたくなることがある。重要なのは、できるだけ自分の主張を合理的なものに寄せ続けその圧力に耐えられるだけの辛抱強さを持つことと、その圧力によって自分の感情を害さない精神力を持つことである。