人生

やっていきましょう

何かができない時の自分には、できる自分が想像できない、という一文をインターネットで目にした。こうした状態の時にこうすれば上手く行くと考えるのは無駄であり、まずはできない自分を破壊することが重要なのだと。

これを見た時には大して気にもならなかったが、少ししてその意味が分かり始めてからこのことばかりが頭に浮かぶようになった。自分は時間の大半を思考に費やしすぎる。何もうまくいかない状態で、それを解決するためにあれこれ考えようとする。だが実際それで上手く行ったのか?現状は何も変わっておらず、惰性がある分、前より酷くなっている。

いま自分は深刻な事実に気がついて身震いした。自分は自分を変えようと動き出さなければ何も変わらないのである。おそらく10年、20年経っても変わらないだろう。変化は自分の現状を破壊するところから始まる。しかし自分は何もせず、ただ自身の停滞を眺めている。不安だ。すべては未来に対する不安によって阻害されている。

今置かれている状況はおそらく最悪に近いが、諦めと現実逃避、きっと解決されるという淡い期待でなんとなく誤魔化されている。しかし何かが変わることは決してない。自分は自分を変えようと実際に行動していないからだ。そんな自分には、変わった後のことはイメージできるはずがない。

何か新しいことをするためには、仮説3割で後はひたすらぶつかって行くことが大事だと誰かが言っていた。本来思考などその程度でいいのかもしれない。

ではなぜそれができないか。不安である。対人不安。話が通じない不安。不合理な感情に振り回される不安。すべては不安によって生じる。

先が見えず不安になっている時、頭の中は思考(というか乱雑な連想)で埋め尽くされている。失敗を誰よりも恐れているからだ。より厳密に言えば他人に不当な理由で失敗を怒られることを恐れている。

不安というのは結局は経験不足から来る思い込みが見せる幻影だ。人は自分が思っている以上に不合理でもなければ、予測不可能でもない。ただ自分がほとんど人と関わらず、長く関わってきた人間が異常者だったことがすべての原因だ。だから不当な不安は捨ててしまっていい。まずは行動。行動による失敗の蓄積。そこから見える改善の手がかり。それをただひたすら集めれば良い。

こんな簡単なことがなぜできないのか。本来自分は失敗を好んでいた。理不尽に感情を吐かれることがなく、いくらでも失敗し改善に向かって突き進める環境があるならば、自分はそこで何千時間と過ごすことができる人間だ。ゲーム開発の姿勢からも分かる。自分に才能がなかろうと幾多の失敗に折れることは決してなかった。なぜなら自分が失敗をしたところで責められることはないし、損をするのは自分だけだからだ。

自分は他人に足を踏み込ませすぎるのだ。他人に対して無防備でいるから、他人の精神的支配下に置かれることになる。自分は他人をもっと拒絶して良い。それは喧嘩を売れとかひたすら避けろという意味ではなく、他人に対して自分という人間をもっと強く押し出して良いということだ。

自分は他人の不合理な感情に怯えるという世界観に生きている。そうした人間には自身の異常性も、そうでない普通の人間が普段生きている生活の、素朴な信頼関係というものも理解できない。どれも自分が経験していないものだからだ。

変化とその先の未来を享受できるのは、実際に行動した者だけである。それは良いことかもしれないし、悪いことかもしれない。しかし自分はやらなければならないだろう。これ以上停滞に耐えられない。