人生

やっていきましょう

自分は誰かのために生きてきた。他人の価値観、他人の機嫌のために自分の感情を犠牲にしてきた。自分は無私を貫いて徹底して他人に追従した。それは社会不安によるものだったが、その不安が形成されたのは、元はと言えば自分が理不尽なコミュニケーションしか取れない人間としか関わってこなかったからだ。自分を価値観まで支配しようとする人、自身の関心しか頭にない人、理解力がなく自身の誤解を決して認めようとしない人、なぜか自分の周りにはそんな人間しかいなかった。自分は彼らに合わせようと無理をして徐々に狂っていった。

その反動が歪んだ形になって現れてくる。最も初めに訪れたのは大人になることへの拒絶であり、次に来たのは自分の中で抑え付けられてきた暴力的性格だった。不良と関わるようになったのはこの頃だった。かと思えば今度は児童のようになり、青年期を拒絶するかのように趣味が退行した。大学という幼稚園に通いながら、失われた自分を取り戻そうとした。それが失敗すると自我が崩壊し、精神の立脚点を失って他者依存的になった。

この文章を側から見ると異常者のものとしか思えないだろう。しかし自分は確かにそのような道筋を歩んできた。自分は子どもの時期に十年近くを大人として生きてきた。大人は誰しも他人のために生きている。他者との関係の中で一人の人間としての責任を果たしている。自分も周りの人に対して配慮しすぎていた。しかし大人と自分が決定的に違っていたのは、彼らには対価があって自分には無かったということだ。

近年になって自分に足りないものは何かということが分かった。それは他者を否定し自分を守るということだ。他人はこちらの都合のために生きているわけではない。当然自分と衝突する。自分はほぼすべての場合において身を退き、対立を回避していた。他人の要求は大体飲んでいた。しかしこれが間違いだった。本当は自分の価値観を守るために最低限戦うべきだった。他人との緊張関係の中で自分の要求を通す経験が、自分に自信をもたらすはずだった。自分は他者とぶつかっていく道を選ばなかった。自分の感情に嘘をつき続けたことで自分の人生は狂った。

自分は他者とぶつかって行く必要がある。喧嘩腰になれというのではない。自分の要求、自分の意思を自覚し、その実現のために行動せよということだ。不安だから避ける、他人に譲るということはしない。他人への譲歩は自分が納得して行う。当然他人とは衝突する。もしかしたらそのために周りの人間が離れていくかも知れない。しかし構わない。これからは自分を優先する。自分のために生きていく。

自分には常識がないわけではない。これまでの人生の大半を他人に譲歩してきたという経験がある。確かに無理はあった。しかしそのために確かに対立は避けられてきた。自分は失敗を恐れるべきではない。もし失敗したらまたここに戻れば良い。だがその時の自分はこれまでの自分とは違う。かつての自分と失敗した自分という2つの根拠から、より適切な距離感を見出すことができるからだ。だから存分に失敗するがいい。どうせ自分には失うものなど何もない。