人生

やっていきましょう

自分の考え(あるいは思い込み)が何らかの前提を自明のものとしているということを忘れそうになる。例えば自分の創作態度が、自分の中にある面白い連想を表現したいというよりは何か面白いものを生み出さなければ、と思い込んでいるようなものであるとき、それはむしろ作品をサービスとして提供するという前提に囚われているだろう。反対に自分の考える面白さにしか関心がないのであれば、表現が自己満足という前提で行われていることになる。

この前提というものを、自分も他人もわざわざ人に開示しない。なぜなら誰も彼も自分の考えが当たり前だと思っているからだ。だから自分も相手も同じものを見ていると思い込んでいると、段々と話が通じなくなってイライラする。あるいは、自分の前提がおかしいんじゃないかと不安になってくる(幸いなことに、相手の前提が間違っていると思えるほど自分に自信を持っていない)。

これは自分の前提がしばしば自分自身に開示されないということでもある。自分はどのようなドグマに囚われ、それをさも当然のものであるかのように思い込んでいるのか。そのことを考えれば、自分は自分を一歩下がって眺めることができる。

自分の創作の動機を考えると、むしろ内向きなものであるということが分かる。確かに大作を生み出して誰かに見せたいという欲もあるが、それ以上に自分の表現の可能性を追求したいという動機の方が強い。正直、自分が納得さえできればつまらないという評価を受けてもいい。むしろ誰も分からなくていいとさえ思う。

自分は反吐が出るような違和感と不安の中から、自身の納得を目指して創作をしていた。この前提が自分の核だ。しかしそれも次第に曖昧になり、最近の自分はどうすればプレイヤー受けの良いものが生み出せるかとか、自分の作品がつまらないものだと思われたらどうしようということばかりを考えていた。

創作、あるいは表現というものは、受け手にとって必ずしも面白いものである必要がない。受け手にとって面白いものでなければならないという前提は、作品を商品として捉えサービスの対価を得るための方便にすぎない。この前提は何も間違っていない。商売をやっていくならば、売れることが何よりも優先されるのは当然だ。金に繋がらないことを作家が延々とやっていたらそれは無駄だと切り捨てられても仕方がない。納期を守らないというのもそのひとつに当てはまる。

問題なのは、この前提に内面の前提まで奪われてしまうことだ。つまり創作というものが読み手にとって最高の体験を提供するサービスでなければならないという前提を絶対視し、自分の内向的な表現活動をプレイヤーを度外視した裏切り行為であると思い込むことだ。自分はその前提が単なる前提にすぎないことを自覚する必要がある。

自分の納得が自分の創作の動機である以上、自分にとってこれらの前提は二の次になる。他人が面白いと思うかどうかよりも、自分が面白いと思えるかどうかを優先しても良い(繰り返すが、これは趣味だから言えることでサービスとしては適切な態度ではない)。他人がつまらないと思ったらどうしようということだが、どうしようもない。振り回されるだけ無駄というものだ。

しかしもっと注意深く観察してみると、結局のところ彼らとあまり状況が変わっていないとも思う。自分は完全に内向きの動機からゲームを作っているわけではない。ゲーム体験のくだらなさを笑ってもらいたいという思いが少なからずある。だから文章の可読性には注意を払うし、面白さへの追求は絶えない。そもそも他人を意識していなければゲームのリワークなど行っていない。

だからこそサービスの目線に囚われていたともいえるが、自分にとって重要なのは内向きの動機であり、その前提をもう少し押し出してもいいのではないかと思う。次に創作に悩んで不安になった時は、その不安がどのような前提から生まれているかということを考えたいと思う。大抵自分を見失っているか、疲れているかのどちらかなので、そうなったら一旦離れて自分の内面と向き合ったほうがいいだろう。