人生

やっていきましょう

今年も日帰りで富士山に登った。去年は9月の上旬だったから今年は早めに行くことにした。結論から言えば自分の人生で最も過酷な1日となり、また最も冒険的な1日となった。

この日は五合目 富士スバルラインから吉田ルートを通って頂上を目指し、下山ルートを通って元居た場所に戻る。要するに去年と同じルートを行った。去年の反省を生かし、朝の5時に出発することにした(丁度付近で家族の用事がありこの日は直接送ってもらった。本当に感謝している。ただ車の免許を持っていないことが悔やまれる)。

大体普通のペースで六合目まで着いた。ここで自分の息があがっていることに気がつく。原因は明らかにザックの重さにあった。Deuterの60Lくらいあるもので、大学時代に買ったものだ(部員ということで本来4万以上するものが特別に1万で買えた。多分一世代前のものだったからだろう)。多くの荷物を負担なく持てるということで有用ではあるが、その荷物を持って登るだけの体力が自分にはなかった。この日は2Lの飲み物を2本、900mlを1本、500mを2本入れていた。これが重すぎた。序盤で自分の体力が一気に削られた。

しかしそれほど悲観はしていなかった。去年に比べて富士山に対する自分の経験値は各段に上がっていた。どういうルートにどういったものがあるかということが大体分かっている。また去年に比べて六合目の天気が良かった。濃霧の中でどこがゴールなのか分からないまま歩かされた去年とは全く事情が違う。目の前にゴールがある。それだけでも心理的な安定感は各段に上がる。

この時の自分は過信こそしていなかったが、まだ余裕があると思っていた。事実六合目は疲れてはいたがそこまで大変ではなかった。問題は七合目だった。去年は余裕だった岩場が今年は猛威を振るう。理由はこのザックである。軽装リュックで登った去年とは異なり、今年は重すぎるザックを抱えながら登らなければならない。当然体力の消耗が激しくなる。後半にもなると息切れを起こし、七合目の段階で去年の九合目と同じ状態になってしまった。

ここで去年の解決策を思い出した。とにかく自身の行動をルーチン化する。軽い試行錯誤の結果、2歩で1カウントして8つまで数えたらその場に止まって8カウント休む、というのを繰り返すのが最適ということが分かった。しばらくはこれで乗り越えたが、やはりザックの重量による体力消耗と息切れによる意識の混濁が激しく乗り越えるのが厳しかった。

唯一の救いは吉田ルートの七、八合目には山小屋が多かったということだ。ポイントごとに十分な休息をとった。それで完全に歩けなくなるという最悪の事態は回避できた。しかしそれでも息切れは止まらなくなり、ついにはゼーゼーと声を出しながら歩くことになった。しかしなぜか気力が萎えることはなかった。

本八合目に着くと体力の限界を迎えた。息切れが止まらず窒息しそうだった。山小屋にザックを預けて軽装で行けば頂上まで行けるのにと考えたが、登山客の荷物を預かるサービスなどあるわけがなかった。遠くでどこかの登山客が突然「はぁ~~~~~~~~~~、ふざけんなよ!!!!!!!!!!」と一人でブチ切れていた。自分もあれと同じ気持ちだった。

とにかく息切れをどうにかしなければならなかった。息ができないから意識が朦朧とする。意識がはっきりしないから足元がふらつく。前に進めなくなる。スマートフォンで解決策を調べると【強く素早く息を吸って吐く】というのが有効らしかった。これを先ほどの2歩8カウントで16ステップ歩き、8カウント休むというルーチンと組み合わせた。1カウントの中に素早く吸って吐くという動作を取り入れた。

これが本当に効いた。今までの疲れや意識の混乱が嘘のように消えた。身体が軽くなった。めまいが消えた。岩場も簡単に乗り越えられた。登山客をすいすい追い越していった。これは頂上まで続いた。去年は自分が最も苦しんだ場所だったが、今年は一番簡単な場所だった。

しかしここからが本当に過酷だということに自分はまだ気づいていなかった。まず頂上に着いた瞬間に天候が悪くなり雨が降り始めた。神社が開いていたので参拝し、周囲の登山者と同じようにそこで雨宿りをした。雷が鳴り始めた。いつ下山できるか分からなかった。時間を見ると16時だった。実は到着時間は去年と同じだった。2時間早く出ていたにもかかわらず2時間遅れていた。

そこでとにかく急いで下山しようということになった。だがこの下山が厄介だった。とにかくこの下り坂が体力を消耗する。自分は登山靴を履いて山に来ていたが、砂が坂道の面に対して山盛りになっているところを踏むとほぼ確実に滑る。だから小刻みに歩きながら前に進む必要があった。これが不規則なので、先ほどのルーチンのステップとタイミングが合わなくなる。そうなると息が乱れてくる。ルーチンで半ば無意識化されていたものを再び組みなおして新たなルーチンを築く必要があった。しかしこの時の自分は疲労困憊しており、そこまで考える余裕がなかった。それで息切れを起こしながら下山することになった。

去年と同じく、吉田ルートの下山道はずっと山小屋がなく本当に苦しい。同じような坂道を延々と下るので精神も持っていかれる。自分は何度もへたり込んで自分の境遇を呪ったりなどしたが、それでも夜に比べればまだかわいい方だった。

本八合目の時とは比べ物にならないほどに消耗した末に、ようやく7合目の便所に着くことができた。この時点でしばらく立ち上がることができず、しばらくここで休んでいた。体力の回復が期待できず自力で下山できない状態だった。ただ時間をかければ五合目までは戻れると思ったので、体力の回復を優先させた。

気が付いたら辺りが暗くなり周りに誰もいなくなっていた。その上土砂降りの雨が降ってきた。ますます下山できそうにないと思った。自分はトイレの入り口に重すぎるザックを置いて雨宿りをしていた。体力は少し回復してきたので、雨が止んだら出発しようと考えていた。

丁度その時複数人の外国人登山客が七合目のトイレにやって来た。そのまま通り過ぎると思っていたら開口一番"Can you speak English"と来たのでこちらは驚いた。自分は"a little"と答えた。彼らは六合目の場所を探しているようだった。どうやら何か困ったことが起こったらしい。とにかく彼らと英語でコミュニケーションを行い、彼らが置かれている状況について理解しようとした。

話をまとめると大体こんな事情だった。彼らは上の方から下山していたが、途中で仲間の一人が足を痛めてしまった。そこでゆっくり下っていたが、日が暮れて天候は悪くなり帰るルートが分からなくなってしまっていた。

彼らはまだバスがあるかと聞いてきたが、20時近くの段階ではバスはもう出ていないということを伝えた(彼らは地上の駐車場からバスに乗ってここまで来ていた)。また泊まれる宿はあるかと聞いて来たが、宿は大抵予約が必要だからおそらくないということを伝えた。この大雨の中彼らは泊まれる場所も地上に帰る方法もなく、また自分が向かうべき場所も分からないという状態だった(詳しくは知らないが、おそらく彼らは富士スバルラインから来たのではなかったように思った。少なくとも吉田ルートの下山道が六合目に続いていることについては知らないようだった)。

ここまで聞いて緊急事態だと察した自分は、彼らに向けて拙い英語でこう話した。自分は六合目の場所を知っていて五合目の富士スバルラインまでは案内できる。また自分は家族の車で五合目まで来ている。もし望むならば、そのまま家族の車で五合目から下山し駐車場まで案内できる。またどこか近くの開いているホテルを探すことができる。

全部を伝えられたか自信はないが、大体の意味は取ってくれたように思った(ホテルについてはそのまま車で東京に向かうので大丈夫だと教えてくれた)。

そして今度は家族に電話した。電波がひどく何度も声が途切れたり聞こえなくなったが、自分がいま(自力で下山できないという意味で)遭難状態にある外国人(内一人は怪我人)と共にいて、彼らをそちらに連れていくから車を手配して彼らを地上の駐車場まで送り届けてほしいという旨を伝えた。事情を察した家族はできる限りの協力をしてくれた。

信じられないことだが、自分は疲労困憊し精神も疲弊し今にもその場に倒れそうになりながらも、外国人と英語でコミュニケーションを取っていた。たしかに今思えば時制や英文法が滅茶苦茶で酷い英語だったが、それでも自分は翻訳機を使わず自分の言葉で話すことができていた。また英語に限らず、相手の言っていることを自分の言葉で反復して確認するといったことや、自分の考えを相手に提案してみるなどという自分では到底無理だと思っていた高度なコミュニケーションを行っていた。そんな頭や体力がどこにあったのか。

とにかく土砂降りの中で彼らを五合目まで案内することにした。家族とは頻繁に連絡を取り合い、今どこにいるか、怪我人の怪我の状況はどうか、ということを確認した。自分が外国人に状況を尋ねると、段々よくなってきたということだった。一応スバルラインには怪我を見てくれる人がいるらしかったので、五合目に着いたら見てもらおうということになった。

正直不安だった。下山ルートの七合目から六合目までの道のりを忘れていた。案内できるとはいったが、自分の意識は朦朧としていて頭も働かず、Deuterの重荷を背負い続けて体力は底を尽きていた。そのまま彼らと道に迷い本当に遭難する可能性は十分あった。

しかし自分は去年一度夜間に七合目から六合目を下り、そのまま五合目まで下山した経験がある。その記憶を頼りに自分は不確かな道のりを懐中電灯一本で乗り越えようとしていた。ひとつひとつ道にあるものを確認して記憶との整合を図った。もし見慣れた光景があればその道は正しく、まったくの未知であればそれは間違っていることになる。

雨はまだ続いている。一本の坂道を5人で下っている。懐中電灯の光はそれほど明るくはない。自分が向かうべき先の道を照らすには不十分だ。だから光の及ぶ狭い範囲で常に自分の置かれている状況をひとつひとつ確認する必要があった。まず落石防止のためのトンネルがあった。これは覚えている。以前この階段を下っていた。次にまっすぐな道がある。これも記憶があった。

問題は森林地帯だ。去年自分はここに来ていたが、分岐があって軽く迷っていた記憶があった。確かこっちだということはなんとなく分かっていたが確証が持てなかった。しかし自分はその場所に置かれた地図と、自分が去年歩いた道の記憶と、何より自身の直感を(下手に逆張りせずに)信じて正しいと思う道を進んだ。

外国人が途中で何度もこの道で正しいのか、と確認してきたが確信のあるところについては常に正しい道だと答え続けた。自分がそういう時は常に根拠を持たせて説明していた。例えばここにトンネルがあり、この先に森がある、といったことを言葉で伝え、自分がこの道を見慣れているということをアピールした。事実その通りの道を通ったので、そこで彼らの信頼を得ることができたように思う。

ようやく六合目に着いた。ここまでくればもう大丈夫だった。富士スバルラインと六合目は帰路に分岐がなく一本道で帰ることができるからだ。あとはもう歩いて帰るだけだったので自分は肩の荷が降りたような気がした。しかしDeuterのザックはまだ肩にかかっている。

五合目目前で自分は歩けなくなった。止まずに延々と自分の体を打ち続ける雨に体温を持っていかれて、気力と体力が底をつきた。自分は30秒休ませてほしいといったが、この大雨の中で立ち止まらせるのは申し訳なかった。だが彼らは自分の重すぎるザックを背負ってくれてまた雨具の上に傘までさしてくれた。今度は自分が助けられたのだ。自分は"thank you for your kindness"と伝えた。

最終的に五合目の富士スバルラインまで着くことができた。そこで軽く怪我を見てもらった。外国人は本当に感謝していたようだ。もし自分がいなければ自分たちは凍え死んでいたと自分に伝えてきた。それから無事に彼らを地上の駐車場まで送り、待機していた仲間のもとに返すことができた。

これを自分の成功体験とみなしていいのか悩んだ。というのも、自分の体感としてはほとんど偶然に導かれたようなものだったからだ。一歩何かを間違えれば自分も外国人も無事では済まなかった。道に迷ったかもしれないし、自分が低体温症で死んでいたかもしれない。また彼らに対しても、自分は善意の施しを行いすぎてしまったかもしれなかった(日本特有の「おもてなし」というやつだが、自分は相手を危険でないと信用しすぎていた)。

しかしとにかく自分は彼らを五合目まで案内し、彼らを地上の仲間のもとに返すことができた。当然自分一人の力ではなく家族の協力があってこそだったが、それでも自分の人生の中でここまで大変な思いをしながら、不確かな状況の中でより困難な目的を達成したというのは初めてだった。自分は無力な社会不適合者だという固定観念が今でも自分にはあるが、少なくともそれに反論できるほどの経験を自分はしたように思う(これが生存バイアスというやつだろうか)。

今回自分が学んだことは3つある。まず、もし富士山で日帰り登山をするならば、荷物を重くしすぎないということだ。他の山と異なり富士山は山小屋が多くある。必要な物資は現地で調達して現地で処分する(山小屋では売り物のゴミを回収してくれる)。あまりに身軽な軽装に対して警告が出されているが、多少自分は荷物を減らした方が良いだろう(具体的には水が多すぎる。今回自分は多く持ち過ぎたが自分が消費したのは3リットルくらいだった。ただ下山ルートに水を買える場所がないと考えると、今の所持量が妥当かもしれない。と考えると問題は体力か)。さもなければ体力を酷使する日帰りではなく、日を跨いだ計画を立てた方がいい(今更だが日帰り登山は相当に難易度が高いと思った。やはり問題は体力だろう)。

次に、タオルは大きいものを所持しておくということだ。今回の登山における一番の失敗はこのタオルを忘れたことであるように思う。防水対策は徹底していたが、自分の持っているタオルがフェイスタオル3枚だけで、これらですべての汗と雨に対処することはできなかった。今度は絶対に忘れないようにしたい。

最後に自分の置かれた不確かな状況に対してただ悲観せず、確かな決断を積み重ねて困難に足掻いてみるということだ。無理だと自分の中で完全に思っていても、部分的に対処できることは必ずある。それをひとつひとつ解消していくと、雀の涙ほどでも改善に向かうことができるものがある。

それを積み重ねていく。そこから見えてくるものがある。これは単なる気分で書いているわけではない。可能性の範囲というものは自分が思うほど曖昧なものではない。いくつかの条件が組み合わさることで開けるものがある。今回外国人を助けられたのは、そうした条件がうまく重なるよう自らが動いた結果であると思う。

今日はこれ以上書くことができない。疲労で死にかけている。また何か考えが思いついたら思い返して書いてみたい。