人生

やっていきましょう

夏の工作と題して有名配信者が視聴者に自分を題材にした作品を作らせ、配信者がそれを評価するというライブ動画があった。多くの作品が投稿され、粘土細工や絵、置物や灰皿など様々なものが投稿されていた。点数は完全に配信者の主観と好みで決められていて、良いものは90点、悪いものはマイナス1000万点という感じでつけられていた。

良いものは大体誰が見ても納得のいく出来をしている。これは凄いと思ったり、面白いと思ったりする。不思議と自分もそう思う。どれを見ても大体ウケそうなラインを攻めている(あるいは目指している)のが分かる。小賢しいというのが言いたいのではない。ファンが配信者のために作ろうと思ったものは、大体似たようなものになる。

しかし中には拗らせた人間がいる。大抵は配信者を活かした作品を送ってくるが、拗らせた人間は自分を魅せようとする欲が滲み出ている。そうした作品は大抵つまらない。主役は配信者であり、その人間を押しのけて自分を押し出そうとする我欲が妙に場をしらけさせる。

この拗らせた人間に対して妙に関心を、そして同情を覚える。おそらくその人は我欲にまみれた自分の作品が歓迎されると思っていたのだ。自分の作品が高い評価を得て然るべきだと思っていたのだ。さもなければ厚顔無恥にも配信者の名を借りて自分の世界を押し付けようなどとは思わないはずだ。しかしこの人間に下される評価はマイナス、あるいは良くて数点である。その歪みに歪み切った自意識、あるいはプライドに無慈悲の評価が下される。そこに重みはない。単によく分からないとか、つまらないとか、面白くないといった理由で平々凡々な点数がつけられる。

しかしこの現実。自分にとっていかに自分の背負っているものがいかに深刻なものであっても、他人にとっては他人事であるという歴然とした事実。きっと報われるという期待を裏切られ、淡々とこの事実を突きつけられたとき、彼らは何を思うのだろうかと思う。当然彼らが歪んでいて、場違いな作品を投稿したということが失敗だったという話なのだが、もし自分がこの配信者のファンで自分の好意を歪んだ形で表現し、それを拒絶されたとしたら、自分は何を思うだろう。

拗らせた自意識を持っていながら、どこかに自分の作品を投稿するわけでもなく、宣伝もせず個展も開くわけでもない、ただ配信者の企画に乗っかるだけの人間というのは、その動機に承認欲求を抱えているというのが分かる。配信者という神に自身の歪み切った自意識を差し出して、自身の救済を求めていたのだろう。しかし神がその期待に反して、これには価値がないと彼らを切り捨てたら、自分はどう思うか。やはり裏切られたと感じてしまうだろう(そしてアンチに転身する。なんとなくこのパターンが一定数いるように思う)。

信用した人間に対して、勝手に期待をして、勝手に裏切られたと感じて、勝手にヘイトを募らせる。人間関係の問題でこうした事例を結構見かける。世間ではこうした拗らせた側がまったくの異常で理解できないという論調が強いが、自分はこうした勝手に期待してしまう側の歪みが分かってしまう。だから可哀そうだと思う。自身の歪みを理解されない辛さがあるだろうと考えてしまう。しかし自分は、その歪みを手放しに正当化すべきでないという立場である。自身の置かれた状況を自覚し、可能ならば適応を目指す努力を肯定する。

拗らせた人間というのは、拗らせた精神状態を拗らせていない側の人間に、拗らせていない形で表現することに長けていない。また自分の歪みを正しく見つめることにも長けていない。そうした自身の状態を認識しないまま、歪みを他者にぶつけると社会で異物として扱われる。

彼らはいつかどこかで壁にぶつかるという運命にある。歪んだ状態の自分を、時としてそのまま相手にぶつけてしまう。そして相手から拒絶される。彼らは(特に自分のような自意識が脆く、心が傷つきやすく、他者からの賞賛を求めているが、しかしプライドだけはあって自分を安売りしたくないような人間は)その壁とどう向き合うべきなのか。

感情のケアも大事だが、自分はまず自分の歪みを正しく認識しようとする。それがおそらく、自分が数年前に見つけた答えである。自分と相手のどちらが正しいではなく、何が原因で不和が生じうるのかを検討する。自分にとっては多くの場合、自分と他人との間で自分の都合を優先させてしまっているところに問題があると感じる。そこで自分は己を出しすぎず、周りと協調できるようにできるだけ配慮する。

これもある種の歪みの形態である。その腰の低さ、へらへらした顔、泳いだ目、自信のない声、そのすべてが奇怪である。しかし己の都合を優先させてしまう人間が、あるいは本能的に協調ができない人間が、自身の特性に怯えつつも、それでもなお他者との共存を図ろうとするとこうなってしまう。

ここから一歩前に進めたらいいと思う。自分はこのびくびく怯える段階から、少しずつ自分を出す努力をしている。周りを害さずに自分を適度に表現するというのはなかなか難しい。難しいが、少しずつ上達していくしかない。