人生

やっていきましょう

1264日目

自らの信念に挫折した人間はどのようにしてそうなるのか。また彼らはその後どうなるのか。これらのことを描いた作品に、これまで自分は何度か触れてきた。激しい忍耐と激情の末に訪れる穏やかな空白。いずれの作品も、多かれ少なかれ、その空虚さを描いていた。

今回見た映画『沈黙』もそんな作品だった。江戸時代、日本にキリスト教を布教しようとしたイエズス会の物語だが、ある登場人物は自らの使命を抱え行動を起こしたものの激しい弾圧に遭い、ついには挫折する。その人物は余生を日本で過ごすが、心に穴が空いたようであり、表情は虚ろなままだった。

この穏やかな時間を自分もまた今現在進行形で経験している。自分は重荷を捨てた。己の弱さを諦めと共に受け入れた。克服の先にあったかもしれない別世界の可能性を捨てた。人への期待を捨てた。自分に残されたものといえば、抵抗のために傷ついたという事実だけであった。

虚ろな人間に流れていく無意味な時間は穏やかなものだ。仏教でよく言われる通り、物事に執着するから悩み苦しみ葛藤する。自分は自己の克服という命題に囚われていた。それを捨てた今、心にはある種の平安が訪れている。

だが自分の本心はこの平安を望んではいない。自分は適度に悩み苦しみ、自分を前進させたいのだ。本能がそう語りかける。しかし自分には、そんな娯楽のような葛藤を嗜むことができないほどに心が折れてしまった。端から見ればどうということはない、準備と経験の不足の産物であるそれは、自分の傾向が努力によって修正不可能であるということを自分に強く確信させた。

奇しくも挫折の原因が、自分のそれを重なり合った。映画では踏み絵によって信仰の棄却を迫っていた。登場人物はその誘惑に抗い、必死に自らの信念のために戦おうとするが、そうすることでかえって状況は悪くなっていく。

自分の場合もそうだ。世間は自分に現社会に適った人間であることを迫る。しかし自分は、自分が思ってもいないことを口にするということができない。例えば人は人が喜ぶ姿が見たい、誰かの役に立ちたいと言える人間を信用する。それが好まれる理由はわかる。また敢えてそうでないと言う理由もない。しかし自分はそうであるとは決して言えないのである。なぜなら今だかつて自分はそう思ったことがなく、言えば自分は嘘つきになるからである。

自分は人づきあいが苦手な人間である。人とうまく交流することができない。そのために自分は、決して人を裏切らず、嘘はつかず、誠意をもって向き合う人間であるということを長年貫いてきた。しかしこの誠意が、自身の無表情やぎこちなさによってうやむやにされ、結局誰も自分を信用しないということになる。

自分は自分の本心にないことを吐くことができない。吐いた瞬間、自分は他人に対して信頼における人間であるという、自己正当化の方便を失うことになる。しかし自分が他人に誠実であろうとすればするほど、自分に無理が重なり、言葉は言い訳としかとられなくなる。

結局自分は、他人に信用されることが今後一切不可能であるという結論に達した。信用されない人間というのはそれだけで生きる価値のない世の中であるため、自分はこの社会で生きるに値しない人間であるとも悟った。自分はそれで、もう何も望むことができなくなった。

映画を見ていると人物の心情がわが身のことのように感じられる。希望を失った人間は、すべてを棄却したことで生まれた穏やかさに寄り添う他にない。しかし映画を見れば、最後まで信仰を捨てずに殉教した者も多く存在している。

自分は彼らのようになるべきだったのか?つまり、自分が理解されないならば、自分の信念を守るために自殺をするべきだったのではないか。今でもそのことには悩んでいる。後先考えず自殺をしていれば、自分は真に自分のまま、自己を正当化できたのである。しかし自分は自分を捨てて、生きる道を選んだ。その余生はやはり空虚なものである。