人生

やっていきましょう

1192日目

自分がよく見ていた女性配信者がいる。その人は初めゲームのキャラクターを使ったネタ動画で有名になった。面白いかどうかと言われれば微妙だが、なんとなく見ている内になんとなく見るようになった。安易な馴れ合いや媚びへつらいをせず、体を張ってネタに走る様は好感を持てた。

しかし最近になってそんな芸人のようなイメージを払拭したがっているような気配を感じる。自身のアバターがコミカルなものから小綺麗ななものになり、配信の中で自分の持ちネタを見せることがなくなった。ネタに走っている自分を嫌悪しているかのようである。

視聴者として、自分はこうした配信者の本心が透けて見えるような動画を見ると落胆する。ネタで客を寄せておきながら、ネタはしたくありませんはないだろうと思う。

しかしこうした本心こそ人間らしさというものだろうともまた思う。人は完璧ではなく、演出には努力がある。ピエロにも本心はある。様々な試行の末に今ある形に落ち着いたということだろう。それは彼女に限らず自分もそうである。

それはそれとして、ネタに走るというのは徒歩もなく困難な道であるように思う。多くの人間が共有する理想を放棄し、独自の発想をもって自身を表現し続けなければならない。自尊心の低い自分にとってネタとは自傷であり、社会的劣勢という確約された事実からの逃避である。もしくはその希薄さゆえの、自己の存在に対する欲求の表れである。

テレビを見ていても思うのである。いい歳をしてバカをやっている芸人が、ふと我に返った時自己嫌悪に陥らないのかと。きっとどこかで思うに違いない。自分は他の人間が理想とするような生き方をしてこなかった。ただ人に笑われて終わる人生だった。他人は笑うが自分は笑えない。しかしそうするしか、自己を表現する術を知らなかった。

自分も同じ轍を踏んでいる。自己否定を笑いに昇華して自分の人生を面白がっている。しかし自分は本心では笑っていない。

だがそれを作品の表現に匂わすべきではないと思う。笑いはあくまで笑いであった方が面白い。笑い者の涙など誰が求めるというのか。