人生

やっていきましょう

人の真剣な感情を小馬鹿にするという見方があまりに当然のことになっていたので、自分自身まったく冷笑しているつもりがなかった。むしろ真剣な態度を素直に認めようとしているつもりだった。しかし実際は他人の感情すべてが滑稽なものにしか見えておらず、自分は無意識のうちに嘲笑していた。

自分の根底に流れているのはこの歪んだ動機、他者を否定したいという欲求にある。自分の気に入らない対象を、自分でも気づかない形で小馬鹿にする。直接言わずともこの種の冷笑を進んで消費する。おそらく自分は善人ぶっているが、他人の真剣さに皮肉を見つけるような偽善者である。これは自分が意識してどうこうという話ではなく、内面が既にそう規定されてしまっているのだから仕方がない。

恐らく自分と関わる善良な知人は、この自分の歪みをちゃんと捉えていて、だからこそあまり踏み込まないようにしているのだ。自分が知人複数と会話した時に、彼らの価値観の純粋さに驚かされたものだ。ごく一般的な人間は息を吐くように冷笑はしないし、自分の感情に率直なのだ。

翻って性格の悪い知人は独善的で自分しか見えていない人間もいれば、露悪的な自分に酔っている人間もいれば、スノッブ的で傲慢さが目立つ人間もいて、どうしてここまで歪んでいるのかと思うこともあったが、よくよく考えてみれば自分が無意識に行っている冷笑とどこか似通っており、自分が抱いていた不快感は結局のところ同族嫌悪だったように思う。類は友を呼ぶものだ。

他者を否定したい欲求というのは他者に自分を侵害された人間が抱くように思う。ネットで他人の悪口しか吐かないオタクも、昔は自分の中にある純粋な思いを大事にしてきたのであり、それを他人に蹂躙されていくうちにいつしか自分もまたそのようになっていったのだと想像できる。冷笑だってそうだ。他人の粗を探して自分の優位を確かめたいという思いは、本当の自分が脆弱で、自分の価値観を信じきることが出来なかったからこそ生まれたものである。お前も俺と同じように脆弱で中途半端で信頼に値しないということを確かめるために冷笑する。

そんな人間の信念とは何だろうか。冷笑に身を投じれば投じるほど自分というものは無くなっていく。実在するマヌケを嘲笑ううちはまだいいが、次第に自分が想定した存在しない藁人形に冷笑し始める。そうなるともう救いようがない。自分は既にそうなっている気がしている。

しかし自分はフェアな冷笑家だと思う。自分の冷笑は常に自己犠牲によって成り立っている。つまり自分の優位を確かめるために冷笑を行うと同時に、その矛先を自分に向けて自身の愚かさを確かめるために笑っている。こんなことをすれば自尊心は簡単に崩壊し、自我が不安定になるに決まっている。しかしそれが万人に向けた冷笑に対して正当性を与えるのであり、自身の冷笑の表現を可能にする。

しかしこうした冷笑家は少数派らしい。自身の体感だが、多くの冷笑家は自己保身のための冷笑を行なっており、他人を傷つけた同じ言葉を自分に向けることをしない。巧妙に避ける。