人生

やっていきましょう

映画にしろゲームにしろ、何かの予告を見ていると不安になるという話を以前した。A~Eの5つのシーンの切り抜きがあり、それらを「効果的」に編集したものを予告とする。だが冷静に考えるとAとBとCとDとEの間には何の因果もない。作品から見せ場を切り抜いて宣伝するという目的のために選ばれた資料だ。そういう目で予告を見ると奇妙な感覚に陥る。自分は何を見せられているのか。

しかし大抵の場合、それらの違和感があるにもかかわらず予告として成立していると納得する。切り抜かれた映像の複数の断片と宣伝文句とメインテーマの組み合わせを眺めているとき、自分の頭にあるのはこの組み合わせの奇怪さではなく単に「面白そうだ」とか「あれが欲しい」という感想だけだ。既成事実化された【予告】の慣習により、自分はこの編集された不気味な映像を妥当なものとして認識している。しかしその妥当の根源らしきものの正体が一体何なのか分からず、自分は毎回cmやら予告やらを見る度に奇妙な思いをするのである。

視点を変えて考えてみる。そもそも広告というものは商品を顧客に買わせたり、存在を知らしめるために行われるものである。したがって広告の答えは客に欲しいと思わせ、彼らの記憶に植え付けるものということになる。必ずしも断片的な情報の配列が必然に基づくものでなくてもよい(たとえばどこかのアイドルがふざけた踊りを見せつけてから商品名を喚くだけのものであってもいい)。それを禁ずる法はない。

とすると問題はこの奇妙な繋がりによって並べられた情報の配列を、受け入れられない自分にある。自分はあらゆる対象に何らかの適切な意図や意味が見いだされないと不安になる人間である。元々自分はそうではなかった。ずっと小さい頃は何も考えず気にしない人間だった。しかし何のきっかけか、適当でないことを馬鹿にされた経験をした。あるいはそれからずっと、様々な場所で自分の話が通じないという経験をした。それで自分は、言葉は常に適切に用いられなければならず、必ず意味や意図を明確にしなければならないという発想に至ることになる。

この考えはおそらく大いに役立っただろう。そうでなければ自分はもっと適当な人間であっただろうし、もし仮に自分の適当さが場を害することに繋がっていたとしたら、それはずっと避けられたのだから。しかしこう思うあまり、世の中はもっと適当な人間で溢れているという事実を忘れがちになる。確かに意図や意味が明確である方が相手に伝わりやすい。しかし伝達可能性に至る道というのは、合理的な明示のみとは限らない。こと演出の領域に入って見れば理屈を超えて雰囲気で圧倒され、妙に説得されてしまうということもある。シーンの切り貼りを音楽と勢いで格好良く見せ、それで自分を含めた大勢が納得させられているのが良い証拠だ。

この合理的な配列による適切な情報伝達という妄執を断たねばなるまい。自分がいま作っているストーリーは、プレイヤーが理解可能なものである必要があると考えている。展開の飛躍を限りなく排除し、その前後が自然な流れで繋がっていなければならない。そう考えるあまりひとつのシーンに何週間も何か月もかけることもある。

だがそれは自分が不安だからだ。自分がその意味を100%の純度で伝えられなければ誤解されると考えているからだ。だが受け手はそこまで求めているのか。馬鹿にしているわけではないが、彼らの多くは作品の意図を100%理解できることはない。なぜなら自分がそうだからだ。理解しようとすることはできるが必ず非明示的で複雑な場面に直面し理解には至らない。それに、意図を100%伝えようとすると霞が関のパワーポイントのようにすべてを一面に言語化していく必要がある。しかしそれは冗長さを招き、今度は回りくどさを与えてしまう。

自分がやるべきことは、ストーリーの展開を考えているときに不安に駆られているという自分を自覚することだ。こうした不安からは面白いものは生まれてこない。ふたつのシーンの連関に対する言い訳じみた言葉を散々並び立て間延びをした挙句、結局最後には不自然な演出に終わるからだ。

繰り返すが、シーン繋がりを必ずしも明示する必要はない。キャンバスの余白は埋めるためにあるのではない。その空白を「活かす」ためにある。その方法はこれまで通り適切に埋めるものであることもあれば、敢えて言及しないことでプレイヤーの思考の余地を与えておくものまである。何にせよ自分は不安に駆られてせっかくの余白を台無しにしている。このことは十分反省されるべきことだろう。

整理しておくと、自分は前衛芸術を作っているわけではない。8年以上前から自分はこのゲームは一般向けの面白い作品にすると定義していた。だから展開の最低限の繋がりは維持する。そこから先は面白いかどうかで決める。不安だからではない。