人生

やっていきましょう

相手のことを考えすぎることが相手の存在を正しく認めないことに繋がるということを、昔の自分は理解していなかった。相手が自分をこう思うかもしれないからこうしようと考えていくうちに、相手は意思のある生身の人間から、予め想定される一連の分岐、すなわち行動の可能性そのものになってくる。

自分にとって相手とは、何をしでかすか分からない混沌として映る。何が原因で自分に敵意を向け、理不尽にも怒りを向けてくるか分からない。この不明瞭さの中で自分が身を守るために体得したのが言葉である。とにかく自分が対象をよく理解しそれを言葉に置き換えて整理すれば、混沌はある程度制御可能になる。

自分は対人面において不安を抱く傾向にある。その根底には誤解に対する過度な恐れがある。誤解をされたくないということが、自分の言葉の過剰という形になって表れてくる。その過剰はしばしば相手の理解や意思を征服していくような形を取る。

自分にはそんな意図はなくとも、自分にとって他人とは理解による征服の対象でしかない。理解によって他人の中の混沌、不明瞭さを征服する。それで安心の領土を広げる。だがそれは時として他人の意思や認識の自由を否定することになる。

例えば自分は、知人と話している時に自分の言葉に対して補足を入れることがある。面白いと言った言葉の後にもちろん皮肉ではなくと言ったり、あれはどうなったかと言った後にあれとはこれのことですと言う。もちろんこうした補足的な話し方が(陥りがちな性質に対する自虐という意味でも)面白いから自覚的にやっていたりすることがあるが、自分はとにかく言葉を明文化して、そのニュアンスに対して相手の理解と同意を迫ることがある。

しかしこれは、相手の他者性を否定する行為でもある。相手が相手の理解度や価値観に従って、こちらを勝手に解釈する自由を否定している。これはこのような意図があり、こうした文脈のもとで進んでいたというこちらの前提を押し付ける行為だ。自分はそれが安心を取り除く効果的な方法だと知っている。しかし相手からすれば、こうした圧力はあまり気分の良いものではない。

おそらく自分の知る限り、一般的な人間というのはこの情報の過剰な補足を必要としていない。彼らの口から浅い情報しか流れてこないのは、実はそれが自他の相違を包摂するものであるからだ。

自分がゲームが面白いと騒ぎ立ておそらく共感を得ることができるのは、それがゲームという大枠のテーマであるからだ。それがapexのランクマッチでP2020を二丁持ちで挑む時となれば、共感はおそらく前より得られない。更に細かいシーンになると、ごく少数人間にしか伝わらない。

理解、あるいは言葉による征服とは、自分の体験や理解や思想に影響された前提を細部に至るまで相手に強要することである。それは自分の不安を取り除きたいという思いからそうさせるのだろうが、対人面でこうした圧力を表に出すことは(求められない限り)避けるべきだと思う。

重要なのは、他人が他人のまま生きているということを認めることだ。それがどれほど浅はかに見えても、他人が他人のまま生きていることを捻じ曲げて、こちら理解の盤上で生きることを強制するのは歪んでいる。同様に自分の前提を捻じ曲げて、相手の盤上に乗ろうとするのも歪んでいる(これには自覚がある。相手に自分を合わせようと無理をしながら、相手が自分に合わせない矛盾に苛立ちを覚えたのはこれのことだ)。