人生

やっていきましょう

956日目

言語によって性格が多少変わるということがある。例えば自分は日本語では奥手だが、英語では表現がオープンになる。

チャットでも何でも英語を話す時、英語は発言をぼかす言葉があまり無いように感じる。maybeというような単語もあるが、自分はこの単語をひとつの限定的な意味に捉えてしまう。

これは言語が意味するレンジの広さに対する外国語話者の無理解から来るのか、あるいは英語という言語が元々ローコンテクストな傾向にあるからなのかは分からないが、いずれにしろ英語を話す時は自分が日本語では言わないようなダイレクトな表現をすることがある。

なぜ自分は日本語ではダイレクトな表現を避けようとしてしまうのか。あるいはそもそも、なぜ日本語になると自分は奥手になるのか。おそらくそれは日本語には自身の主張をぼかす余地があり、その逃げ道が制限されていないからだ。あまりに日本語に長く触れすぎていたのでその言葉に宿る微妙なニュアンスを把握できてしまい、言葉選びに慎重になりすぎる。

英語を話す時、自分は母国語話者から見たら怪しいアジア人にすぎず、そのことを自覚しているので別に下手でも良いだろうと割り切って話してしまうことがある。もちろん外人と話すということ事態避けられるのであれば全力で避けるが、それが避けられない事態になったとしたら、案外自分はオープンに話してしまうのだろう。

以前海外に行った時、始め自分はタクシーの運転手に行き先を示すことすら恐ろしかった。自分の英語が本当に伝わるのか分からなかった。その時自分は無意識のうちに曖昧な表現を選び、相手がそれを察してくれるということを期待していたようだった。しかし相手の理解を得ようとするならば、失礼でも何でも曖昧な表現よりはダイレクトな表現をした方が良いに決まっている。

今思えば、コミュニケーション以上に自己保身を優先した逃げの姿勢であった。自分の言語能力の不完全さを受け入れた上で、とにかく相手に伝えようとすれば良かった。それは日本語についても言える。相手が察することに期待してはならない。自分が伝達しようとして、自ら言葉に表す必要がある。