人生

やっていきましょう

399日目

ある問題が発生する前に、あらかじめ逃げ道を用意しておく必要があると感じた。これは大体のことに応用が効くことだと思うので記録しておく。

自分が失敗した大半のことは、未来を適切に予測できずパニックになりすぎていたことに由来する。面接で失敗するのは何を聞かれてどう答えればいいか分からないこと、ゲームで失敗するときは相手の動作のパターンが読めないこと、人間関係で失敗するのは相手の傾向が予め掴めないことが大体の原因だ。それで精神がたやすく不安定になる。それらは自分にとって致命的な問題だが、当時は向き合おうにもパニックで正確に捉えられず、後から振り返ろうにも嫌な記憶と自分を切り離したくて忘れようとしている。

自分が苦手とするこれらの問題に対して自分は、成功経験が乏しく成功へのハードルが高すぎるくせに、常時確実に成功しなければならないと思っている。これではパニックが起きて当然だ。

そこで何事にもあらかじめ逃げ道を用意する習慣をつける。何かが起こった後ではなく、起こる前に考えることが重要だ。そうすれば実際に何か起きたとき予測された未来の矮小さを見て安心し、十分制御できるようになる。

そのためにはふたつのことに留意する。ひとつは予測を断定しすぎないこと、もうひとつは予測を広げすぎないことだ。

人間関係を例に挙げる。自分は他人に対し漠然と受け入れられる「べき」であるという意識を常に抱えている。それは自分が過剰に献身的で悪意を持って交流していないという自認を根拠にしている。だがそのロジックが崩れる事態に直面すると途端に不安になり、決して表に出さないが相手に対して怒りを感じやすい。

ここが問題だ。視野が短絡的でありながら、自らの予測の正当性を疑わない。善意は必ず報われなければならないとどこかで思っている。だがその善意は相手の都合にあったものか?善意の伝え方に本当に誤解はなかったか?相手は善意に応答できる状態にあっただろうか?

予測の限定はこのように、何らかの不確かな要因が絡んで自分の意図した方向にことが運ばないということを常に意識することで回避される。対人関係においては自認だけではなく相手の立場からもまた判断する必要がある。自分がこれほど相手に気を遣い、身勝手な要求を控えているはずなのに、という自認ではなく、相手の性格や都合を考えるといいかもしれない。

だがこれも過剰でありすぎてはいけない。大抵パニックに至る経緯は、限定的な予測に裏切られ、それに代わる次なる根拠を無限に探索し始めるという道筋を辿る。無際限の探索が何らかの外圧によって自分の焦燥感に駆逐され始めたとき、パニックが起こる。

無限の可能性に翻弄されてはならない。予測の方向性をある程度限定する。あらかじめルールを設ける。とくに成功ではなく失敗したときのルールを設ける。ここまでは攻めてここまでは退く。微弱な失敗のうちに問題と向き合う。成功は偶然と諦め、次なる挑戦へと持続させるためにいまの自分を生かす。そのための逃げ道だ。

これは自分が最も苦手なことのひとつだ。あらかじめ計画を立て不規則な事態に備える。だがこれができれば自分の相当な強みになる。だから日頃から常に一手先を見るようにしたい。(二手三手ができる人もいるが、いまの自分にはまだ早い)

 

398日目

昨日の夜は一睡もできず徹夜になった。頭痛が激しく、意識がはっきりしなかった。常時イライラがおさまらなかった。当然何もできなかった。

徹夜は本当にする意味がない。百害あって一利なしだ。徹夜をするだけで1日が無駄になる。意識がようやく回復したのは0時ごろだった。このまま起きることもできたが、大事をとって休むことにした。

最近生活習慣の乱れがあるように感じた。精神が不安定なのもおそらくそれが原因だろう。意識を改めて今日から生活習慣を正すことにする。適切な睡眠、適切な食生活を心がける。

惰性を減らす。つまり1日を目標のために投じる日に戻す。とりあえずゲーム、とりあえずTwitterという発想はやめる。やるならば目的意識を持って制限のもと行う。

明日は読書を中心にする。読み終わるまでは他のことをしない。

397日目

 明らかに今の自分は死にかけたネズミで、既に精神が死んでおり改善の見込みなどないのに、どうにか改善してほしい、せめて僅かな延命の希望を持ちたいと必死に祈り続けている憐れな存在だ。そうした祈りが記録という様式に発展し、今に至るまで持続していることに驚愕を隠せない。この宗教的熱意が無意味な奇行を1年持続させたのだ。こうとでもすれば自分が再び生者の身に戻れるとでも思っていたのか。だが事実が示す通り、心はすでに死んでいる。目標を抱くという強い願望も潰え、望んでいない目標を無理に打ち立てることの違和感に耐えきれず投げ出してしまう。小説を書く、絵を描くと自分に言い聞かせたときのあの空虚さを思いだすがよい。ゲームを作ると思ったとき、そこにあったのは楽しいという感情ではなく、純粋に遺留物に対する事後処理の感情だった。自分にできることはただ自らの劣等感と恐怖を呪い続けるということだけで、そうした不安に耐えきれず直視できなくなったら、今度は世間や他人といった分かりやすい藁人形に転嫁する。そういう自分の弱さが現実であるということをまた認められず、たまに道化を演じなどするが、後々振り返ってその空虚さが心に刺さり、自虐などもうたくさんなので何も考えないふりをしている。だが実際はどうにもならない問題についてあまりに考えすぎている。

思考をやめて心地の良い言葉だけに耳を傾けよ、自尊とは自らの無力を誤魔化す虚しい妄想だが生きる上では欠かせないものだ、あらゆる人間はこの世界に歓迎されていないなどと思ってはならない、それは事実に近いが生きるということは事実に従って生きることではない、自分に都合の良い妄想に浸って、つまり目と耳を塞いで、自分の世界の住人になるということが生きるということだ、かくして自尊の心は芽生え始める。

なぜそれを拒絶するのか、なぜそれを受け入れないのか。皆そうやって生きているのに、なぜ自分はそうしないのか。

やはりそれは自分が妄想を抱けないことに対する嫉妬からきている。与えられた規範に対する強迫観念、自分の独自性を獲得できないことの恐れ、願望と動機の欠落、無能感、様々な要因が絡んで、夢や願望を抹殺し現実を見るということにひとまず生きる意味を見出した。あの時点で、妄想や願望と共に死ぬことを選ばず、自分にとって不都合で、苦しく受け入れがたい現実を見て生きることを選んだのだった。だが実際のところ、空想の世界の妄想を糧に現実の困難に立ち向かおうとする手合いにルサンチマンを抱いている。現実に空想を生かしてはならないという法はないし、むしろ糧にこそなるならば大いに賞賛されるべきことではあるが、こと自分にはそれが不都合で悔しいので、そこに何らかの優位を見出そうとしたのだろう、安易な冷笑に走りむしろ虚無的な思想こそ優れたものの見方だと思いがちになる。だがやはり本当は妄想とともに生きたかったので、冷笑をすればするだけ惨めになる。

本来願望に基づく妄想とともに生き続けることは自明のことであり、よほど特別な事情がない限り否定されることはない。夢を生かそう、望みをかなえようという社会全体の雰囲気を自分は肌に感じている。望み、それを叶えるということが自明である以上、そうなるべくアクションを起こそうとする人が当然出てくる。彼らは自分が望み、叶えることに疑念がない(あるいは疑念を掃おうとする)。そうすることに不都合なことがないから、ただそうしている。

そうすることが不都合な人間とは、たとえば自分のことのような場合を言う。規範に対する脅迫観念が強すぎて、従順こそが生存の基本戦略となった自分。本当はそうでないはずなのに、利他的に振舞うことでしか社会と繋がりを持てない自分。対立は和を乱すから、ほとんどの場合は平和的に解決されねばならないと考えている自分。そう考えているのは自分だけで、一方で自分の不安の種をまったく抱かず利己的に生きている人間が存在していることを憎しみ、しかし恐れている自分。それに憧れる勇気、立ち向かう勇気がない自分。与えられた価値に服従し、自分のための価値を確立できない、いわゆる「親殺し」ができない自分。

何かを変える勇気もなく、適応する勇気もなく、無力なままで力を望めず、規範に従ってただ生きることを漠然と是と捉え、そうしている間は守られているというずるい感情に安心する一方、その結果自分がまったく欠落していることをそのまま受け入れられない、こうした人間をそのまま生かすならば、世をぐれた目で見渡す他にない。だが冷笑すら、もはや自分には満足のいくものではない。最後の安住の地を自ら去り、目の前にはただ茫然と広がる虚無しかない。そこに接続する能力も勇気も自分にはない。だが自分には主体性を持てないのだから、自ら進むことも、自力で抜け出すこともできない。どこまでも受け身であり、虚無の方へ引き寄せられていくのに身を任せている。長居をすれば発狂は避けられない。ふとどうしようもなくなって突発的に空想の側に戻る。ゲームや映画など、空想に救われているということが認めがたく惨めに思うが、そうすることで精神の安定が回復される。ただそれを繰り返している。意味と無意味の間を行き来して、正気と狂気を往復する。

自分はどうしたいのかわからない。何をやっているのか。長期的な視野を見据えて生きるつもりだったが、とにかく自分が報われる人生を送りたかったはずだったが、何もできなかった。今から何かできることは明らかで、努力によって現状が改善されることは確実で、そうすることが最も打算的であると分かっていながら、そしてそのための準備がほとんど整っていながら、自分の望みという最も根本的な部分が欠落しているために何もできずにいる。望みがない自分の現状は、意味と無意味の間を行く当てもなく彷徨っているだけで、まったく目的も生産性もない。それでいいと思い始めている自分が嫌だ。だが自分には自分の意思を持つ力がない。

396日目

精神が安定しない。どうせ何をやっても無駄だという思いが強い。何かをやろうという気が起こらない。何も考えられない。

今日はひどく不安を覚えた。先日述べた通り、未来に対する不安が大きい。膨大な無力感に心が圧迫されているような感じがしている。ただ無気力なのではなく、無力であることに対する悔しさがある。無力であるからこそ今自分はここにいて、自分に正当性を持たせられないでいる。

無力であることが評価されない時代に自分は生きている。力があるということ、才能があるということ、能力があるということが何より評価される。何も持たないということはそれだけで罪であり、皆が必死に何かになろう、なにかを得ようとしている。それが悪いことだとはほとんど思わないが、それが自分の生きづらさの一因にもなっているような気がしている。

無能であるということが耐えられず、自分という人間が脆く弱みをさらけ出していることに耐えられず、しかし現実はそうであるという事実を突きつけてくる。それで精神を病んでしまった。そんなはずはない、やればできるのだと思い、自分を守るために妄想に駆られ、妄想を現実にすり替えるというのが自分の行動の動機であった。だがそれにも限度があり、結局は折れてしまった。

要するに、自分の生きづらさとは能力がないことに対する過度なコンプレックスに由来している。また同時に、能力がないために他人から叱責されることを過度に恐れている。ただそれだけだ。劣等感と恐怖だけが自分の生きづらさのすべてであり、それらが改善されない限り、自分の苦しみは終わらない。自分が無能であるという現実に耐えられないが、かといってそうである自分に諦めたくもない。

確かな目で見れば分かる通り、努力はそれほど大変なことではない。これは虚勢を張っているわけではない。努力それ自体は先人の教えに倣うか自ら方針を見出すかによって、一連の動作のために膨大な時間を辛抱強くただ投じるだけであり、その質がいかなるものであれ、とりあえずは可能であるという見通しがついている(随分と傲慢な言い方だが自分に自信があるわけではまったくない。実際これが難しいのだということは十分承知している。ここでは実現性がありそれは自分にも可能だということを強調したい)。

問題は自ら方針を定められないということである。劣等感と恐怖が強すぎて、自分の願望に率直になれていない。自分が欲しいとおもったものからは目を背ける。金がないからと自分を納得させる。手に入れたところで自分の満足にならないということを知っている。だから願望を捻じ曲げる。願望は行動指針の根幹をなす。願望なきところに動機はない。自分は願望を捻じ曲げ続けた果てにほとんど願望を持たなくなった。何に触れても感情が靡くということが減った。微弱な願望をどうにか生かしてようやく生存の糧にしている。だがそれもいつまでもつか分からない。

望むということの強さを改めて知る。自分の経験からもそれは分かっている。かつて自分は努力の末の成果を強く望んでいた。本当に望んでいたことは常に行動に繋がり、少しのことではブレなかった。望んでいて本気で取りに行こうとしている時分には、全身全霊で取り組んでいる。望みが持続している限り動機は生まれ、行動に繋がり続ける。

 

395日目

未来がまったく断たれている、という感覚を持っている。未来というものに当事者性を持つことができていない。今現在、自分が考えていること、行動していることが、ただ部分的に存在している。それだけであって、それらのパーツがうまい具合に統合されて、新たな未来像を描き出すということはない。度重なる現在をただ反復し続けるだけにとどまっている。

この感覚の奇妙さというのをどう言語化したらいいのか分からない。いまやっていることをいまのまま感じ取ることはできても、それが未来の方向性を決定する要因にはなりえない。歩いているとき、歩いている自分に満足したり考えることはあっても、それがそのまま東京マラソンに出場したいとか、それを生業にして食っていきたいと思うことがない。行動はそのまま現在で完結し、それ以上の意味を持つことがない。

なにもない。それは記録を始めたときから今に至るまで何も変わっていない。そういう事実を毎日直視し続けている。その確信が強まるにつれ、世間と自分の乖離に違和感を覚えていく。

 

394日目

今日は唐突に外に出て10kmほど歩いた。見慣れた大通りだったが、歩くのは初めてだった。歩いているうちに観察したことや、ふと気づいたことがいくつかあったので書き込んでおく。

走るペースはいつもの通りだった。序盤に飛ばし中盤に減速、最後の方は殆ど歩いていた。いつかの記事でも書いた記憶があるが、何事も後先考えず初動に全力を捧げるというのが自分の人生の傾向らしい。短距離ではパワーがある人間だと思うが、悪く言えば短命であり実際その通りになっている。問題は減速し歩き始めるようになってからも道は続くということで、今の自分の関心はむしろそちらの方にある。もう一度走るのか、生き急がない楽しみを見出すのか、それとも途中で投げ出すのか。

今回歩いたルートは最寄りの駅に通じる大通りをひたすら南下するというものだった。初めのうちはビルと家が立ち並ぶ市街地だが、段々と開けた感じになり、土手と工場以外はほとんど車道だけになる。さらに先を行くと川を跨いで巨大な橋を渡ることになり、そこからずっと奥の道の駅まで行った。最後の方は歩道がなく日が暮れた頃に車道スレスレを歩いてしまったので危険だった。疲れていてほとんど頭が回っていなかった。本当に危なかったので注意が必要だ。

土手を歩いているとき、同じように走ったり歩いていたりする人間たちに何度か遭遇した。変な話だが、普段はあまり抱かないようなゆるやかな同胞意識を感じていた。他人に対して常に漠然とした警戒心と猜疑心、敵対心がある自分だが、疲れからかこの時ばかりは警戒心が緩んでいた。それぞれの人間が異なる事情、異なる背景を持ってこの道を歩いているのだと思うと、「仲間」とまではいかないが、小さな親しみみたいなものを感じていた。

歩いているとき、すれ違ったきり別れてしまうのが良いところだと思う。一瞬の間だけ同じ方向に向かって歩いても、すぐに散り散りになってしまう。そういうところに一期一会や無常といったものを感じる。自分にとって他人はこのくらいの距離がいいのだということも再確認した。下手に気を遣うこともなく、他人に恐怖を抱くこともなく、言葉を交わさず、歩くという対等な立場で各々が活動している。

歩き終わったあとにゲームをする余力が自分にあることに驚かされた。ゲームは不安定な設計の足場を落ちないように進み続ける種類のもので、相当な集中力と忍耐力が要求される。こうした元気な時でもやらないようなゲームをなぜかハマってしまい、気が付いたら朝の4時になっていた。それでもまだ意識を保って起きていられているので、やはり相当体力がついているのかもしれない。

だがこれ以上無理をするとどうなるか分からないので、今日はここで終わることにする。疲れているので情報の整理がつかなかったが、とりあえずは今日思ったことをまとめることができた。

393日目

自分は忍耐強い方だと思っていたが、それは与えられた環境に対してであった。自ら選んだ目標を長期的に持続させることはまるでできていない。受身の忍耐は容易だが、自発の忍耐はなかなか難しい。

受身の忍耐はかつて自分の選択をいち早く放棄し、速やかに集団の合意に適応する必要性があったことに由来する。幼少からその部分だけは強化され、最近まではバランス良く自分の意思を貫くことがほとんどできなかった。

忍耐というなら、自分の意思についても辛抱強くならなければならない。外からの外圧に対して過度な忍耐を強いている一方で、自分の意思の弱さにはとことん甘い。それでは不十分な忍耐だ。

自分の意思を強く持つ。目標を持続し続ける。いかなる外圧にも屈しない。少し都合が合わずたまたま失敗続きでも、自らの選択をすぐには放棄しない。誰からどう思われようと自分はしぶとく粘り強く生きる。