人生

やっていきましょう

564日目

無気力で気分が落ち込む日が続いている。開発を再開する気にもなれなければ、今年のことについて考える気力もない。本来ならこうして記録を書ける状態ではない。だが習慣なので書こうと思う。

いつものように今日も自分の思考を巡らせたが、どれも既視感のあるものばかりか、中身のないものばかりだった。それでうんざりした。考えるだけ無駄なことだ。

何を話題にしようにも思いつかないので、自分が今日やったことに注目した。公園を走り、Apexをして、Twitterを眺めた。

公園は2周走った。初めは人が多かったのでマスクをしながら走った。1周するまで休まず走ったので息切れを起こしてめまいがした。それで2周目は普通に歩くことにした。全部で2.6kmだった。

走っていると家族連れが凧揚げをしていたり、カップルや老人たちがとぼとぼ歩いているのが見えた。空は晴れていて少し寒かった。その中に自分がいて、自分が何をしているのか、どうしてここにいるのかよく分からなくなった。

Apexはプラチナ帯でRPを稼いでいた。とにかく自分はFPSが下手なことが分かっているが、とくに下手だと思うのは劣勢の時だ。3人チームのうち2人がダウンして自分だけが生き残っているという状況で、頭が混乱してオロオロしているうちに殺されるということが多い。パニックの状態で仲間を助けに行ってあっさり殺されるということもある。

自分がパニックになるということがおかしいと笑ってしまう。どうしてパニックになる必要があるのか。失うものといえばRPだけで、何度でも挑戦できる試合のひとつひとつに、なにをそこまで神経質になっているのか。

この問題は根が深い。自分があれほど言語化して修正を図ろうとしていたものも、試合になればあっさりともとに戻ってしまう。過度に失敗を恐れるあまり、絶対に失敗しない方針を考え過ぎて自己破綻する。よくあるパターンだ。

この失敗を過度に恐れるという傾向は、チームプレーで顕著に起こることが大体わかってきた。ソロゲーであれば勝手に失敗して勝手に学んでいけばいいと思えるが、人が関わってくると、そこに尋常でないほどの責任意識と重圧がかかってくる。

自分が社会不安を感じるのは万事責任感が強すぎるためであり、それゆえたかがゲームでさえパニックと隣り合わせでプレーしなくてはならなくなっている。自分の愚かさがゲームで垣間見える。

Twitterは気がついたらアプリを開いている。楽しいとかつまらないとかいう感想を抱く前に、ただ習慣としてそこに行く。

Twitterで自分が不思議なのは、TLに流れてくるどのツイッタラーも自分の人生に関係する主観的(あるいは主体的)な気分や感想について、ただ延々とツイートしているということだ。

神経質な自分からすれば、自分のツイートが邪推されかねないという可能性をまず想定するのであり、加えてツイートの面白さがひどく欠落していることを思い悩む。その基準からすればTLに流れてくる情報はほとんど意味のないものであり、自分を深く混乱させる。

明らかにTLにいる人間はTwitterというものをよく分かっている。ツイートは便所の落書きであり、面白ツイッタラーコンテストではない。Twitterは日常の出来事をシェアしてくださいと言っているわけで、その通りにTwitterを運用している彼らは模範的である。そこに面白くない、つまらないという価値観を持ち込むことは本来的ではないかもしれない。

ふと気が付いたが、これではまるでクラスの人気者の話が酷くつまらないことに失望している日陰者の価値観ではないのか。確かにそうかもしれない。自分は小さいころからそういう人間だった。

ライトな人間というのはとかく面白味がないという印象がつきまとうが、彼らはピエロではなく自らの体験の没入とシェアに価値を置いているのであり、それが端から見て面白いかどうか、ということはあまり意識していないように思う。そういう振舞いができない日陰者、つまり他者に混じることができず、侵食されると感じるような手合いがピエロに走るのではないか。

あまり本意ではないが、彼らと同じように、自分もまた自分の情報を発信してもいいのではないかと思った。彼らを見ると自分の自意識過剰を反省しなければとも思う。

考えるのが面倒になった。今日はこれで終わる。

 

 

563日目

自分の情報源はほとんどネットに依存している。このことについて自分はこれまで考えてきたのか。

ネットに繋がれた人間が発信するあらゆる情報を自分は吸収する。面白い情報から、自分の生き方について考える契機となる情報まで、ほとんどネットで得たものばかりだ。

ネットの情報は言わば他者の経験だ。他者を通じて自分のところに経験が送られる。だがそれは自分の経験ではない。自分には存在しない偽の経験だ。

ゲームの配信がある。自分はその動画を見て配信者の経験を追体験する。しかし実際の困難や喜びは、操作してみないことにはわからない。上手い人の配信を見ている分には簡単そうに見えてしまう。

ゲームに限った話ではない。Twitterに流れてくるような情報でさえ、自分の経験ではない独立した経験だ。それを自分が受け取り、さも自分の経験であるかのように錯覚するのは危険だと思う。

なぜならそれは主体的な経験ではなく、傍観者としての経験だからだ。どこからか勝手流れてきた情報を受動的に吸収し、そこで満足してしまっては、現実を生きる意欲も、自らが自らによって立っているという主体も失われていく。

明らかに自分はネットで暮らしている時間の方が長い。そんな自分にとってはネットの中の方が現実であるように思われてしまう。だからこそ自分に言い聞かせる必要がある。自分が見ているものは自分の現実ではなく、伝聞や記述によって薄められた他人の現実だ。そこからのみ何かを得ようとすれば、自分の人生は傍観者の体験によって埋め尽くされる。口を開けば傍観者としての感想しか言えなくなり、見るものはリアリティが失われる。

ネットで見た陰謀論や政治思想、宗教で「真実」に目覚めた人間を冷笑する風潮がある。ネットの中の現実が実際の現実を超越したひとつの例だ。自分は彼らを笑うが、では自分は彼らとどう違うのかとも思う。自分もまたネットに繋がれており、多少は冷静な判断ができるだろうというだけで、根底部分は同じではないのか。ネットの中で歪められたリアリティから出ようとしないという点で、自分と彼らはあまり変わらない。

自分に必要なことはネットの外の世界が存在するという想像力を持つことだ。ネットと同様に(あるいはそれ以上に)現実の体験も重視する。ネットで何を見たかだけでなく、現実で起きたことに注目することで自分の視野を広げ、情報に対する向き合い方を改善していく。

 

 

 

 

 

562日目

一度自分が定義した思いつきの解釈を、更に具体的に掘り下げて再定義し直すことの難しさがある。自分にはこの能力が欠けている。

自分が一度正しいと思ったことを否定するのは容易なことではない。否定すべき点が分かれば話は早いが、大抵の場合、それが正しいかどうかの判断がつかないまま、何となく受け入れるか否定することになる。

自分の能力を考えれば、判断はつかない方が常である。だから自分の理解力を超えたことを無理に判断をしようとしてもうまくいかない。

だが自分の実力が及ぶ範囲に限定して、可能な限りの答えを出そうとする姿勢にはあまり問題がない。

問題は自分の、行動や経験から得られる認識、情報を軽んじているという姿勢だ。

自分のような事前に考えすぎる人間は、実際の行動や結果という要素を判断材料にしないという傾向があるように思う。そのため、自分が理解できないものについては、とにかく無い頭をフル稼働させて、手持ちの情報「だけで」理解しなければならない、と思い込んでしまう。

このつまらないプライド(あるいは無意識的な思考の癖)によって、自分は自分の頭で無限に考え続けてしまう。そしてそれが止まることがない。

賢い人間は頭の中だけで生み出された情報のみにこだわるということをしない。彼らはその思いつきに強いこだわりがあったとしても、実際の行動や経験と比較し、修正するという術を心得ている。

自分は経験から来る痛みや恐れを回避するために頭の中ですべて考え尽くしてから本番に臨もうとするが、悲しいことに自分はそこまでの理解力を持っていない。完璧であろうとするが、頭が追いつかず、それでいつも不十分だと嘆いている。

実際のところ、自分にとっては経験や行動から何かを得た方が楽なのだ。見たこともない絵画の特徴を、ただ無機質な説明によってのみ頭の中で再現するよりも、実際にその目で絵画を見て把握した方が遥かに容易だ。数学の問題を前情報なしに解こうとするよりも、答えを見ながら解法を追った方が理解が簡単だ。

このように考えると、自分の思考の行き詰まりは圧倒的な経験不足と思考の極端な自己完結にあると言える。

思考といえば自分の頭の中で何かを思いつくだけではなく、実際に目で見て手で触れた感覚を判断材料にすることも含まれる。

思考はあらゆる角度から行われる必要があり、経験や結果から学習することは特に重要だ。自分の解釈が常に浅く感じるのは、自分の視点というただ一点のみに支えられた脆い言説だからだ。

再定義をしようとしても、自分の中にある言葉は不足しており、これ以上具体的に言及することができない。定義し直すには外部からの情報を取り入れて自分の考えと混ぜていくしかない。

561日目

今年を振り返ってみると精神の安定という目的のためにほとんど無意味な時間が費やされた年であった。精神の安定というのは結局のところ誤魔化しであり、惰性であり、現実逃避である。昨年に比べて向上心が薄れ、とにかく安心できるということを優先していた。後から振り返れば必要な時間だったとは思うが、今年何かを挑戦することもできたということも事実だ。自分は行動をしないという選択をした。今年はそういう年だった。

とはいえそれも仕方ないとも言える。新型コロナウィルスが流行し、とても積極的に外に出る気にはなれなかったからだ。もちろんそれは単なる言い訳にすぎないが、世間が内向きになっている状況で、外に出て人と関わろうと無理をしなくて良いという動機が得られたことは、自分の重荷が取れたような気分だった。それで今年は安定の年にしようと決めた(やはり自分は、方向性を自分で決断するよりも、外から決断「させられる」ことで何かを決められる弱い人間だと思った)。

今年新たに始めたことはApex、トロコン、マラソン、読書、グノシーq、ゲーム作りあたりか。あとはそこにクイズやスマブラTwitterなどが加わる。

内訳としてはまったく面白くない。だがそれにより精神の安定を得たのは事実だ。事実を言えば自分に初めて余裕と言える余裕が生まれている。そのため何かをやろうと思う気持ちを自分で持つことができるようになっている。

当分の間ゲームを完成させることが目的になっている。とにかく完成させる。そのあとようやく自分は解放される。その時が何かアクションを起こすチャンスではないかと思う。

560日目

これには意味があるのか、と随分長い間問い続けてきた。意味と呼ばれるものが自分の生まれた以前から共有されていて、自分が生まれ言語による認識を獲得したと同時に自分の中で自明のものとなっていた。それこそ、その自覚が失われるほどに意味は自明だった。

意味は価値とも置き換えられる。価値づけという行為がひとつの習慣となっていて、世の中に吐いて捨てるほどころがっている無機質なものに、自分はいくつか親しみを与えてきた。親しみというのは、まさにそう言うほかに無い、ある種の事実誤認だ。そこに自分らしさを感じるものとして解釈することが、価値づけるということだ。

自分が近年味わった精神の挫折から学んだことは、この自分が持っている意味や価値というものが必ずしも他人や社会のそれと一致しているわけではないということだ。こう書くと当たり前のように聞こえるかもしれないが、それは自分にとって大きな気付きだった。それと同時に、それは自分に今まで味わったことのない実存的な不安を与えた。

それまで自分は能力的に恵まれなかったかもしれないが、生きるに足る人間であるという一定の自負を持っていた。当然、他人もそう思ってくれていると思っていて、人間各々には生きる意味があり、生きる価値があると自分は思っていた。

これはある意味正しかった。ただし、それを正当とする人間と人間が構成する関係の上においてのみだ。人々が互いに生きる価値がある、生きる意味があると言い聞かせることで、自分はその共同幻想の内側に暮らすことができていたということに自分は気づいた。だから自分がその関係から切断されたとき、つまり人間の精神がひとつの独立したものとなったとき、この生きる意味や価値とやらが、まったく奇妙で、無意味なものに見え始めた(自分に皮肉を言えばそれは「神秘的」だった)。

この見方は極めて個人的なものだ。意味や価値の供給源となる集団から切断した/された人間が、必ずしもその欠乏にあえぐという訳ではないかもしれない。理屈を言えば、強靭な価値の供給源を内側に持つ人間は、外部からの供給が絶たれても自分で種を撒き、自ら耕すことができる可能性だってある。

だがそれにしても、ある時点でそうなったきっかけはいつも外にあると思う。生まれた時から自分は意味や価値を内側に宿していたわけではない。どこかで、外側にある共同幻想の種を自分に持ち去る必要がある。その意味で自分は意味や価値というものは、他者や外部を通じなければ獲得できないものだと思っている。

だが自分にはそれができない状態にある。どこへ行っても、何を見ても、それが「自分の」ものであるようには思えない。世の中の意味や価値から切断された個体として、自分は価値の網に繋がっている人々の安定した世界を眺めていた。価値をただ傍観していたのだ。

その時の孤独というのは恐ろしかった。このとき自分は、この不安を無くすには自ら死ぬ以外に解決する方法が無いという状態に追い詰められていた。自分は死者であるという、最後の価値に救いを求めた。だが死者が称えられるのは、芸能人の訃報と同様、単に生者の中でしかない。自分は彼らの持っている意味や価値を、死ぬことで与えられると夢想していたにすぎなかった。

死ぬということは自分の意識が分解されることであり、生命活動はもちろん、意味や価値などを吸収し構築できない状態になることでしかない。それは本人にとってはまったくの無意味である。おそらくこれが事実だ。だからこそ自分は自殺すら積極的に価値づけすることはできない。自分は自分の身体がそのように思うことを退けようとするはたらきに従って、ただ惰性によって生きている。

ずるい言い方だが、結局は周りの世界は変わっておらず、自分だけが変わっているのである。だから自分が再び適応しようとすれば、少しずつ自分の周りには意味や価値がとりまき始める。これはおそらく正しかった。自分がすこし考えることをやめただけでも、apexやスマブラやクイズで一喜一憂したり、本や映画を見て話について考えたりすることが自然にできている。これは異常だ。異常という自覚がありながらそのようにしているので、無自覚な意味の自明さと自覚的な無意味さが混合して、おかしなことになっている。

最近自分は、自殺という物語ではなく、機能という仕組みに助けられているのだと実感する。機能は、それを扱う人間がどれほど精神的に異常であったとしても、ある目的を持って一定の方向から操作を行った結果、その操作に応じた反応が返ってくる。もちろん、世の中のすべてがそう狙い通りにはいかないとしても、すべてが混沌の中にあるのではなく、少なくない場合には一定の機能やパターンが存在する、ということに自分は救われている。なぜなら自分の精神は自ら価値づけできないほどに腐っていながら、目的を定め機能的に行動することで生命活動を維持できているからである。

自分にはその機能を運用し、パターンを学習する能力がない。むしろ文章を書いて自分勝手な価値づけを行っている方が向いていると自分では思っている。

だから自分で自分を不幸だと思う。これだったら自分は変に虚無を直視しようとせず、自分の思うがままのところを好き勝手言って、それに賛同しない相手をバカだ、未熟だと思っていればよかったかもしれない。明らかに自分はその傾向があり、おそらくそのように生きていた方が幸せだっただろう。

だがこれ以上の後悔、自己憐憫は無意味だ。それらの麻薬は自分の痛みを和らげてくれるが、痛みを先延ばしにするだけであって、肝心の痛みや不安が消えたわけではない。現実を見ないからといって虚しさを感じるくらいなら、現実を見ようとするしかない。

後悔が長すぎた。ひとつの事実を言えば、現実は今ここにしかない。自分が何を選択するにしても、ただ過去を後悔するだけで時間を無駄に過ごすのはつまらない。だから行動しろと自分に言い聞かせたい。これこそ何度も使い古された陳腐な常套句だが、自分はやはり冷静に考えてみても、行動する以上に過ぎた事を嘆きすぎる。

 

 

559日目

ローカルディスクの(C:)を見たところ、空き容量が10GB未満だったのでPC内を整理することにした。このノートパソコンは5年以上使っているが、その間ごみ箱に捨てたファイル以外はそのまま放置されており、データが蓄積され続けた結果今の状態がある。

容量の大半を占めていたのはゲームのアプリだ。Fallout4は35GBもあり、Teamfortress2やGarry's modは20GB近くあった。再びダウンロードをする手間が面倒で、そのままPC内に放置していた。

またダウンロードファイルの中に5年分のダウンロードが蓄積されていた。大学で使ったPDFや、ゲーム制作のために使用した音楽素材も入っていた。これらは大体10GB近く入っていた。またゲームバーのキャプチャ機能で取った動画もまた、5年分蓄積されていた。これも10GB近くあった。

自分のPCはほとんどゴミ屋敷だった。容量を食っていたので今までPCが重かったのだと思う。とりあえずかなりの量を処分しようと考えた。だがここで自分の悪い癖が出た。どのアプリを消すかが決断できないのだ。どのゲームもすぐに手を出しそうなものばかりで、Steamからアンインストールすることをためらってしまう。データ自体は消えることがないにもかかわらず、すぐプレーできることを惜しんでなかなか決断がつけられない。

それでもFallout4とL4D2はアンインストールした。Portal2もskyrimも消した。キャプチャの動画とダウンロードファイルも消した。ごみ箱の中身も処分した。これで97.6GBの空き容量が確保できた。一度踏ん切りがつけばあとは行動がはやかった。躊躇いというのは過ぎれば本当に無駄だと思った。

調べたところ、ローカルディスク(C:)の空き容量は、全体容量の20%以上開けるのが良いとされるらしい(理由はよくわからない)。自分の全体の容量は454GBだから、90.8GBあたりを超えていれば問題ない。まだTF2やGarry's mod、それからCiv5 Civ6やkenshiといった大容量のゲームがpc内にあるが、とりあえずはこれで様子を見るつもりだ。

 

558日目

障害物の当たり判定が正常に機能しない問題について考えた。具体的には、動いている障害物が主人公に触れたとき、画面上では触れていないにもかかわらず、なぜか触れた扱いになってしまっているというものだ。

原因を調べていたところ、障害物が「半歩移動」ではなく「全歩移動」に設定されていたことが分かった。元々このゲームは「半歩移動」で設定されており、以前何らかの理由があって「全歩移動」に設定したのだった。

なぜ「半歩移動」のままでなく「全歩移動」にしたのか。その原因は「全歩移動」を外してみて分かった。「半歩移動」のままイベントが主人公に衝突すると、イベントが適切に反応しないという現象が起こった。

イベントの発生条件を「イベント接触」にした状態で「半歩移動」のイベントを上から下に主人公に衝突させると、動画のように判定が機能しなくなるというバグがある。これはこちら側の問題というよりはウディタ側の不具合であり、自分にはどうしようもできない問題だ。

おそらく以前も同じ問題に直面し、どうにか「全歩移動」にしたことで問題を誤魔化したのだろう。ただ「全歩移動」にしたとしても同様のバグがごくまれに発生するばかりか、触れてもいないのに触れたことになるという別の不具合が発生してしまう。

しばらく色々と試したところ「全歩移動」の不具合の解決方法が見つかった。「ウェイト」を1フレーム挟む、これだけでよかった。

詳しいことは分からないが、イベントが主人公に接触した際に毎回ファイルから効果音を呼び出しており、その呼び込みにかかる時間を待たずに場所移動を行っていたことが原因であるように思う。1フレーム待つことで、ちゃんと触れた瞬間に飛ぶようになり、避けゲーとしての機能を果たすようになった。

だが1つ問題がある。ごくまれに発生する「半歩移動」の不具合が残っているということだ。「全歩移動」のイベントが「半歩移動」の主人公に上から衝突した場合、接触したことにならないという不具合がある。

この問題は主人公を「全歩移動」にすることで解決する。これにより「全歩移動」と「全歩移動」が衝突することになるので、問題なく接触できるようになる。

だが主人公を「全歩移動」にすることで、これまで「半歩移動」を想定していたゲーム全体に多くの不具合が発生することが懸念される。そこで障害物回避のマップに限定して「全歩移動」を行うとしても良いが、そうなると今まで「半歩移動」の感覚に慣れていたプレイヤーが突然「全歩移動」を行わなければならなくなり、違和感が出てしまう(「半歩移動」の場合は、移動キーを軽く打つと半歩、少し長く打つと全歩という操作の違いがあった)。

個人的には半歩のままで様子を見ても良いと思う。ウディタの側でこの問題が修正されたとき、アップデートされたシステムと置き換えれば自然と問題が調整されるからだ。イベントが触れていないのに触れた判定になっていた問題よりはそこまで深刻でもないので、今は放置する。

 これでギミックは完成した。残すは2章の終盤とクリア後の扱いであり、この2つを終えて今年は終わると思う。