人生

やっていきましょう

1189日目

数年前に放映されたギャグアニメを見た。当時は見ていて苦痛だったが、今みたらそれほど悪いとは思わなかった。

アニメ自体は当時とまったく変わっていない。最近の風潮なのか分からないが、ネットでのバズを意図した作りになっており、とくにネットユーザーならどこかで見たことのあるようなネタを積極的に取り込んでいる。当時はその魂胆の浅はかさが苦痛だと思い込んでいたが、今思えば問題は別のところにあったような気がする。

おそらく問題は、このアニメを自分から見ようと思ったのでなく人から見せられていたというところにある。自分が最も嫌悪していたのは、自分が特に興味のなかったものを話題作りのために無理矢理見ようとして、心にもない感想を言わなければならなかったということだ。自分の関心を惹いていない(もっと言えば面白いと思っていない)にもかかわらず、この作品のどこが良いかを言わなければならない、そうした環境に置かれていたことが苦痛だったのだ。

当時は必死に我慢していたが、人生がうまくいかなくなってからその無理ができなくなり、途端に他者に対する激しい憎悪が堰を切ったように流れ出してきた。が、幸い自分はその感情に飲まれることはなく、自分自身のやり方にも問題があったと思うことができたために暴走することはなかった。しかし当時の記憶を思い出させるもののひとつとして、このアニメに対する歪んだ嫌悪は今でも残っていた。

先日このアニメの二期が始まるということで、Youtubeでは動画を長時間生放送で垂れ流すという宣伝が行われた。これがトップに流れてきたときには気分が悪くなりこれまでずっと見ないように避けてきた。しかし避ければ避けるほどこの動画が目に付くようになり、ますます自分が囚われてしまっていることに気づいた。それで思い切って見ることにした。

アニメの出来自体は当時と同様、そこまで良いものではなかった。しかし自分はそれを、以前とは違う目線で見ることができているということに気づいた。この作品は自分の嫌な過去を掘り起こすものではなく、世に出回るアニメのうちのひとつでしかないと思えるようになっていたのだ。

以前との違いは、この作品が自分にとってはどうなのかという視点を持てていたことである。自分にとってはここが面白い、自分にとってはここがつまらない、そういう見方ができるようになっていたことで、自分はこの作品と正面から関わることができていたのである(当時は自分という視点がなく、ただ作品の影響だけがあった)。

なぜそれができていたのか。おそらくそれは、自分の意志でそれを見ようと思ったからである。自分で決断したことはそれが何であれ、大抵のものは受け入れられると言われる。当時の自分にとってこのアニメは自分の関心の外にあった。そしてそれを無理矢理好きにならなければいけないと思っていた。そうした無理が、当時のこのアニメに対する嫌悪を増長させていた。だが今ではそうした感情がほとんどない。文化の違いから多少は苦手だと思った部分はあったが、ほとんどすべてにおいて、自分はこの作品の面白いところは面白いものと素直に思え、つまらないところはつまらないと思えるようになっていた。

こうした態度が作品と関わる健全な態度だと理解できた。しかし一歩間違えば自分だってそうした態度を自覚できなかったかもしれなかった。

ある界隈では、ある属性の人間に対して激しい憎悪をぶつける人間が目につく。彼らを見ていると、自分もああなっていた可能性は十分にあったと思うのである。おそらく彼らは自分の意志を持たず抑圧されてきたのであり、それが何らかのきっかけをもって制御できなくなったのである。しかし怒りや憎悪を根底にした復讐としての運動というのは、結局のところその反動による際限のない要求へと帰結する。それが新たな犠牲者を生み、同じような憎悪に至るだろうということは容易に想像できる。

自分もアニメオタクやアニメ全般による抑圧という暗い過去を持っており、彼らに対するヘイトを永遠にネットで吐き続ける人間になってもおかしくなかった。しかしそうならずに済んだのは、自分が感情だけで生きてきたわけではなかったからだと思う。一度冷静になり自分の立ち位置を俯瞰すること。その訓練を多少なりにも身に着けてきたからこそ、それが虚無感や無気力の温床になっているとしても、自分の感情を自分と切り分けて考えることができたのである。

ところで自分の中でオタクに対する嫌悪が薄れていったのは、彼らは自分の好きなものが大好きで、それしか目に見えていない人間だからだということを悟ったからだ。彼らは物好きゆえの視野狭窄から好みを押し付けているだけにすぎないのである。つまり彼らはこちらにまったく忖度しない自然現象の一種のようなものであり、彼らに対してあれこれ不満を持つのは、台風や地震に対して文句を言うようなものだと悟ったのである(これはオタク以外についても言えることだ)。

そう考えると、問題の解決は具体的な対処と自分の気の持ちようだということが分かってくる。そもそも自分はなぜ彼らを嫌悪していたのだろうか。おそらくそれは、自分に彼らの影響を抑えるだけの内面的な力がなく、ただじっと我慢をするということでしか彼らに対処することができなかったからである。

主導権は常に環境にあり、自分はただ従うしかできなかった。だから弱弱しい憎悪を持って自分を守ろうとしていたのである。そう考えれば、自分を心に巣食っていた嫌悪などはただの内面的な反応にすぎなかったことがわかる。まずはこのように考えることで自分の中の嫌悪というものを対象化し自分から切り離すことができる。そうなればあとは適切かつ具体的な対処だけである。自分は健全な人間関係を構築するために何をすることができるだろうか。

第一に、相手に無理に従うという関係そのものを見直すことだ。オタクに限らず、自分の考えと異なる相手に合わせ続けるというのはいずれ歪みを生む。自分はこうした無理を長年続けてきたのであり、その結果人格を相当歪ませてしまった。そうならないためにも、まずは他人との適切な距離を維持するよう努めることが重要だと思う。具体的には自分の関心や尊厳を崩さずに済む適切な人間関係を構築し、互いの共通点、相違点に対して敬意を払うことである。これができるならそれは良い関係であるし、できないのであればどこかに無理がある。

第二に、他者との関わりにおいては基本的に自分を守るということである。価値観の相違に直面したとき、自分は基本的に自分の側につくということである。他人を分からせようと思って言葉数を増やしたり、自分の考えを切り捨てて他人にすべて従おうとしてもいけない。相手は相手、自分は自分と割り切り、極力自身の無理を減らす。自分に対して敬意を持たなかったり悪意のある人間についてはもちろんのこと、自分と価値観の合わない人間に対しては距離を取る。

この距離を取るというのも、不安や憎悪に駆られて行うのは間違っている。自分が合わないなと思ったら冷静に距離を取ることが望ましい。負の感情に駆られるのは他人からのダメージを受けてからになるので動くには遅い。ストレスを抱える前に先手を打って自分を守れるようになれると尚良いと思う。ただし敏感になって何でも不快なものは切り捨てるというのも間違っている。自分には言うまでもないが、ある程度の耐性を持つこともまた重要だ。

第三に自分と他者の異なる前提に目を向けることだ。被害者感情に支配された人間が見落としがちな視点だが、例えば自分が長年他人に対して服従を自ら強いてきた自分のような人間と、健全な人間関係を維持してきた相手とでは見ている世界の背景が違う。自分が被害者だと思っている人間の世界では自分は被害者であることが常かもしれないが、そうでない人間にとってはそうでないのである。

こうした見方の是非については問わないが、少なくとも自分がどういった前提を持っていて、相手がどういった前提を持っているかということを見極められると、必要以上に自分を傷つける必要がなくなるように思える。もし自分の前提を理解していれば、そこから生じる歪みのようなものを表に出さない工夫ができるだろうし、相手の前提を理解していれば地雷となる話題を避けることもできるだろう。こうした努力の積み重ねが、長期的に見れば相手の価値観を尊重し、自分の価値観を守ることに繋がるように思う。

自分の考えを大事にし、自分のために生きるということは自分にとって難しい問題である。なぜなら今までそうしてこなかったからだ。自分のために生きようとすると、そうすることが何か悪いことのように思えてしまう。しかし他人に服従し続け、自分を抑圧し続ける方が今の自分には悪いことのように思うのである。

これは楽観的な自己解放を訴えているのではない。自分を尊重し、他者を尊重するという関係においてこそ、自分とは異質な、もっと言えば自分が元々関心を持っていなかったり、嫌悪していたものに対する関心が芽生えるようになるのである。自分がもし今の文化に飽き足らず自分とは異なる文化を取り入れたいと求めるのであれば、自分は自分を持っているということを忘れないようにしたい。

1188日目

自分の能力を超えた登山や長距離が可能なのは、自分が自分の疲労に関して人一倍鈍感だからではないかと考えた。明らかにそれらに対して十分な体力があるとは言えず、バテてからがしぶといというのも、自分の疲労や痛みを適切に自覚できず制御が効かないからではないかと思うのである。

おそらく自分がまだいけると思っている1つか2つ段階を下げた辺りが自分の適性なのだ。全力を尽くさなければ達成できない目標は、実は自分の実力を超えているのだが、自身の無理と愚鈍さゆえになんとか達成できているのである。これを自分は危険だと思う。

自分に対する鈍感さというのは、自分の身を危険に晒していることに気づかないということでもある。自分が既に体力の限界を超えていることに気づかず、ある時急に倒れ込んでしまう可能性だってある。これからは少し加減をするということを意識した方がいいと思った。

1187日目

Apexをやめて以来不安になることが多くなった。今までどれほどの時間をあのゲームに費やしていたのだろうと思う。しかしそのために自分の不安が抑えられていたことは事実だ。今の自分は昔に戻ったようだ。

不安について考えるなら考えるだけ無駄だ。結局不安になったところで答えは出ないのだ。自分の幼少の頃から思っていた疑問がある。すなわち、この世は不確実で曖昧なことが多いのにどうして他の人間は正気でいられるのか、ということだ。例えば自分は社会不安と被害妄想の激しい人間だから、自分の言った言葉がいかようにでも解釈でき、こちらに不利なように働かせることができるという可能性に怯えている。そうした妄想を抜きにしても、自分がはたして本当に打倒な考えを有しているかということに関しては人一倍懐疑的になっている。こうした状況は何も自分だけに限らず、あらゆる人間に対して開かれているはずである。にもかかわらず、行き交う人間は誰一人として発狂した様子を見せず、日々の自身の行動を自明に受け入れている。

この問題について先日考えている人間を目にした。彼によれば多くの人はあらゆる未知の可能性について考えることはせず、自身の成功体験を参照しているにすぎないということだ。自身の経験を超えたあらゆる可能性について考慮しはじめると、対処すべき情報量がほとんど無限になり、頭がパンクするということである。

この意見には身に覚えがあった。つまり自分がよく思考停止に陥ってしまうのは、自分の経験に基づく妥当性への信頼が欠落しており、次に起こるかもしれない無限の可能性ばかりを考えてしまうからだ。それにより自分の脳の処理が追い付かなくなり、頻繁に頭がパンクするということである。

例えば挨拶ひとつにしてもパンクの原因になり得る。自分が他人に挨拶しようと考える時、形式的な挨拶をすべきなのか、砕けた挨拶をしてもいいのか分からなくなる時がある。こうした時、自分は他人に不快な思いをさせまいと失礼ではない表現をひたすら頭の中で検索し続ける。組み合わせの数々により表現は無限にあり、どの表現が最も妥当であるかが分からない。こんな時頭が真っ白になり何も言えなくなってしまう時がある。

かつての自分は、いったいなぜかくも多くの人間が、この無限の可能性について何ら混乱もせず、常にリラックスして対処していられるのだろうか、いったいそこに彼らはどのような明察な根拠を見出しているのだろうかと考えずにはいられなかった。

だがおそらく、彼らは何も考えていないのだろう。彼らは自身の挨拶が挨拶として成立した自身の経験を参照しているにすぎないのである。彼らが平気で身内同士で砕けた会話ができるのも、彼らの間で砕けた会話をしても関係が破たんしなかったという経験があるからである。あるいはそんな彼らが別の場所ではフォーマルな振舞いを見せるのも、人生のある時点であらゆる人間に砕けた会話をすると関係維持が困難であるということを学習したからだろう。

自分はこのことについてまったく理解できないわけではない。あまり自覚がないだけで、自分もまた多くの判断を経験に頼っている。例えば自分が朝食に毒が入っているかもしれないから食べないという馬鹿げた妄想に屈しないのは、それが論理的にあり得ないからではなく、何も考えずに家の飯を食べても何ともなかったという経験を20年以上蓄積しているからである。

経験の中で得た妥当さは、ある一定の条件の下で成立したというだけのことにすぎない。したがって異なる条件下で再現に失敗した時、経験に依存してきた人間にはどうしたらいいかわからなくなるという欠点がある(少なくとも経験に頼らない思考を持つ人間にとっては、多少なりとも彼らと比べれば自己修正や調整が容易であろう)。経験は万能ではない。しかし少なくとも、あらゆる問題が自明ではないためにオーバーヒートを頻繁に起こしているような自分にとっては、この自己の経験に基づく自明さへの信頼を何としても得る必要があるように思うのである。

このブログではもはや何度となく繰り返し述べて来たことだが、自分の不安の根源は明らかな経験不足である。自己の経験という指標を持たず、多くの情報を処理できるだけの知能も持たず、無限に等しい可能性を処理しようとしているから頭がパンクする。そうではなく、自分はまず自身の経験から成功の道筋を定めるところから始めるべきなのだ。頭を使えば解ける問題ではなく、自分の中では無限の処理を必要とする不確実な問題に対して、実際に行うというアプローチを試みる。そこで得た経験に基づき自分の中で判断を蓄積する。その経験が自分を不安から遠ざけ、確かな自信を生み出すだろうと思う。

1186日目

Apexでまたストレスを溜めた。画面に向かって無意味な暴言を吐いている自分を後から振り返ると、自分は何をやっているのかと情けなくなる。

最近しばらく離れていたが、また離れたいと思う。楽しいというよりは苦痛にしか感じない。自分が長年やってきてうまくいかないのは、視野角をいじらない、ランパートに拘り過ぎる、感度を設定しない、毎日射撃訓練場に行かない、味方を前提にした動きをしすぎる、状況に受け身になるばかりで自分から場を動かそうとしない、などが挙げられる。そうした問題点が既に自分にあるにもかかわらず、味方が悪い、敵の当て感がおかしいなどと文句を言う。本当に愚かでしかない。

2年前、自分がFPSを始めるのが怖かった。人格が変わると言われていたからだ。まさにそうなった。自分はMGO2を中学の頃やっていたとき、そのことをよく理解していたはずだった。TPSでさえキレやすくなっていたからだ。ただMGO2はそこまで感情的にはならなかった。一度死んでも何度も復活できるからだ。

Apexは自分の人生の中で最も感情的になったゲームだった。特にランクマッチになると自分の感情は壊れた。カジュアルもストレスは貯まるがまだ許せた。失うものがないからだ。しかしランクマッチは、負け続けるとどこまでも失われていってしまう。バトルロイヤルも、アリーナも、負けるたびに自分は不条理に耐え切れなくなる。

ランクマッチは本当に1人でやるべきではない。それは難易度が高いというだけでなく、精神が持たなくなる。毎回協力的な味方であるとは限らない。考えを持っている人間ばかりとも限らない。自分の指示に従ってくれる人ばかりとは限らない。すべてが不確実だ。その中で自分は何度も死ぬ。死ぬ度にこんなはずではなかったと後悔する。

もしApexがソロのゲームだったら、ここまでストレスは感じなかったと思う。自分が負けたのは100%自分の立ち位置やエイムが悪かっただけだと言えるからだ。そこから試行錯誤を始め、戦略を学び、自己研鑽をすればいい。しかしApexはチームのゲームだ。他人が絡んでくる。そしてその他人にソロは大きく振り回される。そのために自分の本質的な問題、ここでどうすれば良かったか、その時何が足りなかったか、ということに意識が向きづらくなり、ただ味方が悪い、敵がおかしいと文句を言いがちになる。

自分はもうランクをやめてもいいのではないかと思う。もっと言えば、Apexだってやめてもいいのではないかと思う。Apexを離れて別のゲームを始めたとき、いかにそれがストレスフリーであるかということを実感できた。aoe2などは1つのキャンペーンを3時間かけて負けたとしても、Apexとは異質のくやしさしか残らないのである。

最近昔やっていたMMOをやった。ほとんどストレスがない。敵は簡単に倒せ、広範囲のスキルで簡単にレベルが上がる。虚しいといえば虚しいが、こうしたゲームもあるのだと改めて再確認した。Apexのように、極度のストレス状態下でしのぎを削るようなゲームばかりではないのだ。またそのゲームだけにこだわりつづける理由もないのだ。

今日限り引退とは言わないが、しばらく離れたいと思う。いつか自分にとってApexがどうでもいい存在になった時には、また再開したいと思う。

1185日目

同じ場面の開発に1か月かかった。筋書の曖昧さを何度も書き直し、ようやく1つの良い流れができてきたというところである。妥協ができないとこうなる。それが完成を遅らせている。

我流で作り続けるということがいかに苦痛で大変かということを何度も思い知らされる。これを機にそうした無理はやめようと思っていても完成まで先は長い。賢い人間は自分が暗中模索の中で開発してきた7年間に、多くの知見や技術、表現方法を身に着けてきただろう。そう思うと自分は何をやっているのかと情けなくなる。

自分がすべきだったのは、いきなり偉そうな大作を作ろうとなどと思いあがらず、小作品を何度も作り、確かな実力と経験を積んだ上で自分の表現したいものに挑戦するべきだった。本来自分の作っているゲームは、1時間以内に終わるようなものだった。それがここまで大きくなってしまったのは、自分の傲慢としか言いようがない。

だが自分はやり遂げる。人生の大半を既にこの開発に捨てているが、必ず完成させる。1つの作品に何年も取り組むのは無駄だと言う人もいるし、実際に自分もそう思っているが、自分は無駄を単なる無駄に終わらせるつもりはない。作る中で何かを学び、行き詰まったら打開策を考える。その経験を自分の中で生かしたいと思う。

第四章のプロットはほぼ完成している。だからいま自分が意識することは全体の方向性ではなく、個別具体的なシーンの演出である。どのような演出が効果的であるか、ということを今は考えたい。

 

 

1184日目

中高時代の夢を見た。夢の中でも自分は言葉が出てこない異常者だった。しかし当時は今よりは良かったかもしれない。自分にはまだ期待するだけの未来があった。

言葉が出ないという問題が自分の人生を大きく狂わせた。今では多少改善したが、その後遺症はまだ残っている。何も不安に思っておらず、普通に話そうとした時、自分は何度も言葉に詰まってきた。

この状態はapexで敵部隊に詰められている時とまったく似ている。突然自分の意識の外から想定外の攻撃を浴びせられ、自分の思考は硬直し、意識が混乱する。

ここから分かる通り、自分の会話不全は不注意の産物であることがわかる。話そうとして話せないのではなく、それまで別のことを考えていて、急に予想外の会話を求められるために話せなくなる。

また会話の情報量を調整することが下手である。何か質問をされた時、自分は出来るだけ思いつく限りの情報量で話そうとする。自分は会話というものに対する要求水準をあまりに高く見積もりすぎている。そのくせ何ら準備を行わないものだから、予想外の事態というものだらけになる。

まず意識すべきことは、書く時のように話すべきではないということだ。話す時はとにかく情報量を減らす。要点だけを発言する。そして何を話すか予め準備をしておくこと。自分は話に対して準備をするということを嫌ってきた。しかし明らかに何をすれば良いか分かっている状態の方が言葉が詰まることがない。当然である。自分の会話不全は想定外の事態に対処できず起こるからである。

ある種の会話にはこの想定外の連続を楽しむ傾向がある。むしろこれこそ会話の本質に近いものではないかと思う。そう考えると自分の準備や要点といった注意は会話というものに反した動きであるかもしれない。しかし自分はそのために何もしないわけには行かない。自分には楽しむ余裕がない。とにかく自身の不注意と完璧主義、そして警戒心を改善し、会話を成立させないことには何も始まらないのである。

 

1183日目

apexでダイヤに到達した。もはや知り合いは誰もやらないゲームだが、自分だけは未だに続けている。

今シーズンもストレスが酷かった。特にプラチナⅠに入ってからが地獄だった。とにかく味方に対する怒りが尋常ではなかった。流石に嫌気が差して数日間離れていたところだった。最後はギリギリのところで昇格した。

今シーズンはほとんど自分でリーダーをやらず味方についていくことが多かった。自分が指示を出してもついてこないからである。そのため自分は何を考えているか分からない他人に合わせようとしすぎて、何から何までワンテンポ遅れ、不利になるというばかりだった。

勝ち筋は理解していた。移動優先、最終円を予測したポジション取りができていれば大方勝てる。道中の漁夫の利は極力無視し、キルポイントは最後の数部隊で取る。これが経験上最も安定してrpを取れる。

しかしそれを理解している味方があまりに少なかった。戦闘が起これば何も考えずそこに向かう。うまく漁夫の利を得たつもりが、別部隊に同じことをされる。もう何度も同じことを繰り返してきた。

ずっと言ってきたことだが、rpを気にするからストレスが酷いことになる。ポイントを気にせず自分がどれほど頑張れたか、自分に何ができて何ができなかったかだけを見た方が良い。そして味方に背中を任せすぎない。基本は自分一人で考え動き、味方を極力カバーする。

次スプリットをやるか悩んでいる。おそらくやるのだろうが、ストレスを抱えるくらいならやらない方ががいいかもしれない。