人生

やっていきましょう

いつから自分は賢く物分かりの良い人間を演じるようになったのか。実際の自分の能力はそこまで優れているわけでもなく、悪い方に近い人間だ。誤解も多く、分からないことが沢山ある。

自分の正体は背伸びした無能であることは百も承知をしているが、他人はそうとは取らない。自分のフリを事実と受け止める。ますます後に引き下がれなくなる。

キャラに束縛されて本来の自分を出せていない。別にこんなことは今すぐにでもやめればいいのだが、自分が長年築き上げてきた「誠実さ」のイメージを崩した先のことを考えると恐ろしくなる。

なぜなら自分は、自分の存在意義を誠実さの実践に置いていたからだ。自分がいかに価値のない人間で他人に迷惑をかけるだけの存在であったとしても、誠実さを希求しそれを実践する限りにおいて、自分は他者の前に存在することを赦されている。どこかでそう思っている。

この考え方はいかにも弱者の発想だと思う。自分は自分の手で何かを掴み取ろうとしていない。その勇気がなく、しかし自分は悪くない、自分は何も間違っていないと思いたい人間がこうした発想に行き着く。誠実さが自分を誤魔化す言い訳になっている。

最近この物分かりの良さで感謝されることが多い。ますます融通がきかなくなっている。

創作をするにあたって、面白さを自覚できている時とそうでない時がある。後者の場合、いくら考えても面白いアイデアが湧いてこない。面白いアイデアを生み出そうとして堂々巡りに陥る。

面白さの正体について自分は何度と言及してきたが今でも理解は変わっていない。自分にとって斬新な着眼点から生まれた独自の発想であり、それを生み出すためには自ら湧いてくる奇抜な連想、あるいは外部から流れてくる新奇な情報に対して常に好奇心を持ち、それらをどのように活かせるかを考えられるといった自発的な態度をもつ必要がある。

この態度は万能ではなく着想を得るためのものにすぎない。したがってその着想を実装したり、セリフの可読性を吟味したり、バグを発見し改善の方針を立てるといったことには必ずしも役には立たない。それらを考える時には実際にそこにある現状を調べ上げ、整理する力が求められる。更に論拠に基づいて方針を決定する力も必要になる。これらもまた反対に、良い着想を得るための態度には必ずしもなりえない。今ここに揃っている材料が仮に最高のものであれば、状況を整理することは良い着想に繋がりやすい。しかし今現状揃っているものでは良い表現ができない場合、置かれた現状の処理からは良い着想は生まれない(それらはどこまでいっても現状の延長にしかならない)。

この(大雑把に分けた)二つの態度を使い分ける必要がある。もし自分が今面白さに行き詰っているとしたら、今あるもので何とかしようとするのではなく全く新しい発想を取り入れようとするべきだ。

例えば今自分はストーリーの展開がそれほど面白くないと感じている。分岐Aと比べて明らかに面白いストーリーを目指して開発を始めたが、分岐Bは平凡で分岐Aの方が面白いという残念な結果になってしまっている。それは分岐Bの方針を明確にできていなかったからであり、分岐Aの延長で物事を考えていたからだろう。

分岐Aの特徴はやはり王道であったことだ。一般的なRPGでありストーリー展開に一貫性を求めていた。当時の自分は分岐Aで真面目なストーリーを作ろうとしていた記憶がある(実際はそうなはらなかったが)。

分岐Bはその逆を行く。破壊的で、適当で、全力でくだらないものを作る。ストーリーは最低限でよくあとは脱線して構わない。物語の否定。純化された笑い。露悪。分岐Aのことは忘れてしまっていい。完全に別の路線に進む。

これらの前提をもとに、分岐Bのストーリーを今一度見直したいと思う

 

 

 

最近中学1年の数学を見る機会があって、教科書を読んでいたらいきなり理解できない部分にぶつかった。マイナス同士の減算である。

たとえば(-6)-(-4)=(-2)が成立する。これはマイナスのマイナスはプラスと同義であるという理屈から(-6)+(+4)=-2として説明できる。しかしそれがイメージとして全く理解できない。マイナスのマイナスがなぜプラスに転じるのか。

そもそもマイナスとは何かという話になる。数直線で考えた時、右を正の方向、左を負の方向とする場合が多い。この時負の方向が左側なのだから、(-6)-(-4)はマイナスに向かって-10となりそうなものだと考えてしまいそうになる。確かに(-6)-(+4)の場合はそれで構わないが、問題は(-6)-(-4)である。

自分はこう考えた。マイナスとは、ある任意の方向に対する反対を示す。正の方向に対する負の方向、東に対する西、時計回りに対する反時計回りがこれにあたる。

数直線上で考えたとき、(-6)は6の反対方向にその数(絶対数)だけ進むことを示す。-(-4)は(-4)の反対方向にその数(絶対数)だけ進むことを示す。つまり-(-4)は+4と同義である。したがって(-6)-(-4)=(-6)+(+4)=(-2)ということになる。

中学数学を振り返るとこのように理解が欠落した部分が多いことに気づかされる。そういうルールだからということで反射的に記号操作をしていたが、なぜそれが成り立つのかを理解できていない。自分が数学が苦手なのはこの説明抜きに話がどんどん先に進んでいくからだ。おそらく数学で挫折している人の多くが同じ理由で躓いていることだろう。

この一か月に何があったのかをここに書く。いくつかのことが自分の身に起こり、結果として自分は内省をする動機を失った。端的に言えば考えることが面倒になった。

こうなった原因は主に3つあると考えている。

まずはオンラインゲームで立てた新たな目標だ。火力を増やすために思いつきで高額商品を買うと決めた。額はとんでもなかったが、3月末までには買えるだろうという見通しが立っていた。ひとつひとつ計画を立てて、3月はひたすら着実と資金を集めていた。

次にオンラインゲームのギルド。自分はこれまでソロを貫いてきたが、最近知り合いにギルドに誘われてやってみることにした。初めは断るつもりでいたがサブの育成をする必要があったのでラジオ感覚で入ってみることにした。結果的に価値観が近いということが分かり、そのまま残留して今に至る。

最後にゲームの知り合いとの関わりだ。最近知り合った人間だが、癖が強く理解ができないところがある。この人との関わり方が分からないでいる。しかし分からないにもかかわらずこの人の影響が自分の思考に及んでいる。

いずれも自分に大きな影響を与えた出来事で、それらは必ずしも自分に悪い影響を与えたわけではない。しかし結果的に見れば自分の思考を削ぐ形になってしまっており、改めて現在置かれている状況を整理する必要があると考えた。

まずはオンラインゲームで立てた目標について。これは自発的な動機に基づいた良い行いであり、計画を立て、反省し、改善点を模索し、仮説を立て、進路の修正を図るという一連の行動が、自分の感情に乱されず滞りなくできていたという点で、個人的には高く評価できるものだった。問題はその計画に自分の思考と関心の大半を注いでしまったということで、そのために内面と向き合うということがおろそかになっていた。

二つ目のギルドについて。これも自分にとっては良い経験で、近い価値観の人間と話しができるというのは良い刺激だった。話そうと思ったらいつも誰かしらいて、ボスやゲームの誘いをすれば誰かしら乗ってくれる。集団の利点とは自分の都合に適う人間が見つけやすいということだった。自分が個人で活動していた時は相手の都合を考えるあまり、ゲームに誘うのにも神経を使っていた。ここではそういうことがないので気楽にできる。

ただしこのギルドに属しているということが、結果的に自分の思考を失わせる。ここにいる間、自分の話している内容の大半が否定もされず議論もされずすんなり受け止められていってしまうのを経験した。それが居心地の良さにも繋がっているが、この環境に依存していると本来自分の思考に必要だった自己批判、推敲という作業を怠ってしまう。この環境に長くいたので、最近の自分は思考を働かせることがあまりなかった。

何を言っても受け入れられるということは恐ろしいことである。自分が誤った情報を吐いていても、相手の価値観に踏み込みすぎた発言をしても、受け入れられてしまえば問題にならない。この受け入れられているという表面だけを見て自分の正しさを確信してしまうと後で大変なことになる。

そして最後にゲーム知り合いとの関わりだ。あまりに異質な人間であり、自分がどう関わっていいのか分からなくなる。一言で言えば独自の世界観を有しており、本人はそれが当然相手に伝わっていると考えている。自分しか見えておらず人の話を聞かない。だが価値観を押し付けるとも違っていて、異常な認識を自明のものとして扱っているだけだ。

それだけなら別に構わないのだが、この人はその独自の価値観を延々と話し続ける。相手に迷惑かもしれないだとか相手に合わせた話をしようだとか思うことが一切なく、ただひたすら現実離れした「感受性豊かな」話を長々と語り続ける。こうした行いが正規ユーザーには気分が悪いらしく大御所のギルドマスターからはブロックされていたり、彼と懇意であるこのギルドにさえも警戒的な意見が主流である。

個人的には興味深い人間だ。対人面ではまったく想像力に欠ける人間が、独自の世界のこととなると常人の域を超えた発想をする。しかしこの人間と関わり続けたことにより、自分の思考は失われつつある。

この人が悪いというわけではなく対人全般にいえることだが、他者と関わる人間というのは少なからずその思考が他者の影響を受けたものになる。自分はいまこの人間の思考の影響を強く受けていて、話し方もこの人間の回りくどい言い方に似てきている。

この一か月の自分は置かれた環境によって自己を見失っていた。その結果思うように言葉が出てこなくなり、何かを書こうという動機も薄れてきている。こう書くと他責のように聞こえるが、そうではなくこれらを踏まえたうえで、この先自分に何ができるのかを考えたい。

まずは自分ひとりと向き合う時間を確保する。集団の中にいると自分というものを見失ってくる。常に自分と向き合うことを忘れず、その先に人との関わりがあるということを忘れてはならない。そのためにできることは、常に一定の距離を保ち続けるということだ。これは相手を避けるという意味ではなく、自分の思考を働かせることができる距離まで離れるということだ。

つぎに自分の記録をおろそかにしないことだ。記録は自分の思考を整理し形成するために必要なことだ。自分が話していることがどういった根拠から発せられたもので、それがなぜ妥当であると言えるのかをある程度理解していなければ、自分は自分を制御できているとはいえない。制御がなければ人は逸脱する。それが強みになる場合もあるが、自分の場合は不安と曖昧につながる。それらを回避するために頻繁に文字を書いて自分の思考に指標を置く。

その上で適度な付き合いをする。自分の言葉と考えに向き合うだけの十分な時間があり、それを維持できる程度には適度な他者との距離を保つ。基本は自分自身であり、自己本位を何よりも優先させることを忘れてはならない。

 

惰性に生きていると自発的な思考というものが失われてくる。目の前の事柄にただ反応するだけで、腰を据えて状況を見極めたり先の展望について考えることができなくなる。

今この記事を書いているこの瞬間でさえ次に何を書いたらいいのか分からなくなっている。こうした戸惑いや葛藤を言語化しようと思ったが、なかなか言葉が見つからない。

こうなってしまった原因について改めてまとめようと思うが、今はこの失われつつある思考について維持する努力をしたい。自分にできることといえば、記録を書くということだ。

記録をつける。どんな些細な思考でもいいから毎日まとめる。そして振り返る。自分は何を考え、何を感じてきたのか。そこから見えてくるものを自分はこれまで大事にしてきたはずだ。

誤魔化しが上手くなったのか、自分が物事を考えなくなったのか、最近の自分は現実について考えなくなった。自分の人生をより良いものにするために具体的な行動を取るということがなくなり、今はほとんど自分の生み出した空想の世界と向き合って過ごしている。

最近の自分は、この内面世界をどう拡張し深めていくかということ以外に関心がない。これは作り手としてはある種の理想的な境地であるかもしれないが、その一方で危機感も抱いている。

現実で渡り歩くということが不可能になってきている。本来なら現実世界で生きていくために必要な情報を吸収していかなければならないのに、自分はもはやそれすらしない。現実にありながら現実に存在していない。かつて自分が最も恐れていた事態である。

自分に何が起きているのか。まず最近の社会の話題についていけない。細かいことを知ろうとしない。現実で何が起きているかを深く考えられない。すべてが遠くの出来事のように感じる。

次に人と話さない。話が合わず聞くだけになる。次第にそれにも飽きてくる。 

そして見聞きした情報を、現実にではなく空想に資するものとして利用し始める。こういう演出ができる、こんな題材があるということばかりを考える。

段々と自分の中で空想が現実に置き換わっていくのが分かる。曖昧な感覚がどこまでも続いている。いよいよ自分も危ないのではないか。

 

新しいボスをこれから作る。ギミックは自分の技術力で作れる程度の単純なものにする。

マップは少し広めの野外、悪天候の中迫り来る黒い影の群れがボスになる。この影は直接ダメージを与えられず、触れると体力が削られる。

影は数秒ごとに増え、最終的に5体程度になる。最大まで達したらそれ以上増えない。ただし5体同時に攻撃されたら一瞬で即死する程度のダメージになる。

ボスを倒すために特殊な手段を取る必要がある。上手くいくと影は消え、ボスに一定ダメージが入る。これを数回繰り返せばボスを倒せる。

要するに、迫り来る影から逃げながら特殊な手段を講じるところにボスとの駆け引きがある。あまりに影の攻撃が理不尽なら対処しきないし、簡単に避けられるならゲームとしては面白くない。序盤のボスということも考慮に入れて適当にやっていては勝てず、頑張れば勝てるくらいの難易度を目指したい。