人生

やっていきましょう

創作をするにあたって、面白さを自覚できている時とそうでない時がある。後者の場合、いくら考えても面白いアイデアが湧いてこない。面白いアイデアを生み出そうとして堂々巡りに陥る。

面白さの正体について自分は何度と言及してきたが今でも理解は変わっていない。自分にとって斬新な着眼点から生まれた独自の発想であり、それを生み出すためには自ら湧いてくる奇抜な連想、あるいは外部から流れてくる新奇な情報に対して常に好奇心を持ち、それらをどのように活かせるかを考えられるといった自発的な態度をもつ必要がある。

この態度は万能ではなく着想を得るためのものにすぎない。したがってその着想を実装したり、セリフの可読性を吟味したり、バグを発見し改善の方針を立てるといったことには必ずしも役には立たない。それらを考える時には実際にそこにある現状を調べ上げ、整理する力が求められる。更に論拠に基づいて方針を決定する力も必要になる。これらもまた反対に、良い着想を得るための態度には必ずしもなりえない。今ここに揃っている材料が仮に最高のものであれば、状況を整理することは良い着想に繋がりやすい。しかし今現状揃っているものでは良い表現ができない場合、置かれた現状の処理からは良い着想は生まれない(それらはどこまでいっても現状の延長にしかならない)。

この(大雑把に分けた)二つの態度を使い分ける必要がある。もし自分が今面白さに行き詰っているとしたら、今あるもので何とかしようとするのではなく全く新しい発想を取り入れようとするべきだ。

例えば今自分はストーリーの展開がそれほど面白くないと感じている。分岐Aと比べて明らかに面白いストーリーを目指して開発を始めたが、分岐Bは平凡で分岐Aの方が面白いという残念な結果になってしまっている。それは分岐Bの方針を明確にできていなかったからであり、分岐Aの延長で物事を考えていたからだろう。

分岐Aの特徴はやはり王道であったことだ。一般的なRPGでありストーリー展開に一貫性を求めていた。当時の自分は分岐Aで真面目なストーリーを作ろうとしていた記憶がある(実際はそうなはらなかったが)。

分岐Bはその逆を行く。破壊的で、適当で、全力でくだらないものを作る。ストーリーは最低限でよくあとは脱線して構わない。物語の否定。純化された笑い。露悪。分岐Aのことは忘れてしまっていい。完全に別の路線に進む。

これらの前提をもとに、分岐Bのストーリーを今一度見直したいと思う