人生

やっていきましょう

23日目

今日は図書館が閉まっていたので映画を見た。映画は何本か見たが、特に気になったのは『ウォッチメン』という映画だ。ウォッチメンはヒーローモノだが難解かつ複雑で、アクション性にも乏しく、ひたすら考えさせるという苦行を3時間強いる映画だ。このため他のハリウッドのアクションヒーロー映画に比べて地味で退屈な印象を受けるが、自分の中では特に印象に残った映画のうちのひとつになるだろうという確信がある。

ウォッチメンのテーマはヒーローの存在意義、勧善懲悪では成り立たない現実、正義とは何かだ。こういうテーマは今では珍しくなく、バットマンの『ダークナイト』などにも現れている。だがダークナイトが2008年なのに対しこの映画は2004年、しかもこの原作は冷戦真っ只中の1980年代に作られた。そのためこの作品にはいかに先見性があり、リアリティがあるかということが分かるかと思う。

自分は映画評論家でもなく技術や脚本の専門家でもないので、ここでは自分の感想を書くに留める。ここから先は本筋ではないが軽い設定上のネタバレを含んでいるため、映画を見る前に見ることをおすすめしない。

自分にとってウォッチメンがどういう映画に映ったかというと「混沌と世界危機に直面した人間はどう振る舞うのか」という思考実験、そしてそれに対する答えだ。ヒーロー達はそれぞれその答えを持ち、ある者は協力し、ある者は対立した。

ロールシャッハは極度の猜疑心に苛まれ、悪に対してはどこまでも追求し、そのためなら手段を選ばない人間だ。彼はヒーロー活動を取り締まる法律(キーン法)を無視して独自に活動を行っている。自分の正義を貫くためなら他の正義を否定するようなヒーローだ。彼は自らの活動をロールシャッハ記として記録に残している。

コメディアンは道化を演じている。人間には善悪の両方があり、それゆえ正義を名乗ることの滑稽さを見抜いていた。皮肉かジョークかいつも酒に酔って他人を馬鹿にしたような態度をしている。この姿は『ダークナイト』のジョーカーを思い起こさせる。

オジマンディアスは常人の10倍の知能に加え、恵まれた身体能力を持つヒーローだ。自分の力に絶対的な信頼を置いており、自らの正義を実現するためにヒーロー引退後は財界のトップを走る。自分の正義のためなら手段を選ばない面があるが、それは合理的判断によって成された正義だという確信がある。優秀な人間はその能力を適切に使い人々を先導し、平和を維持するべきだという信念がある。

Dr.マンハッタンは不慮の事故で超人的な力を得た物理学者だ。彼は人間というよりは人間を超えた生命体であり、自分の体を分解したり再構築したり、巨大化したりすることができる。米ソ対立の抑止力になるほどその力は絶大で、他のヒーローの力を超えている。人間との接点がなくなるにつれ徐々に人間や地球への関心を失い、宇宙や真理について考えるようになる。

二代目シルクスペクターは正直よくわからない。スーパーヒーローであることは間違いないのだが、映画を見た限りどういう個性や能力があるのかよくわからなかった。初代にヒーローを押し付けられており、キーン法によってヒーロー稼業から解放されたことをむしろ喜んでいる。

ナイトオウル2世は様々な機械を用いて戦うヒーローだ。見た目はバットマンに似ている。性格は至って普通の人間であり、変わり者がほとんどの中、唯一の常識人という印象を受ける。小さい頃からヒーローに憧れ、親の財産を引き継ぎマシンを作って、晴れてヒーローとなった。他のコミックや映画で描かれている典型的なヒーローに最も近い。

世界の終末、つまり米ソによる第三次大戦と核による地球の崩壊に直面して彼らはそれぞれどんな態度を取ったか。ロールシャッハは真実に白黒つけるために緻密で過激な調査をひたすら続けた。コメディアンはすべてに開き直り酒に酔った。オジマンディアスは自分の知力を信じ世界危機を回避するためにあらゆる手段を尽くした。Dr.マンハッタンは人間のつまらない争いに嫌気がさし地上を離れ火星に引きこもった。二代目シルクスペクターは曖昧な正義感があるだけで、問題を直視しようとせず普通の暮らしを求めてナイトオウル2世に近づいた。ナイトオウル2世も同様、曖昧な正義感と単純な勧善懲悪を信じており、解決できない問題には目を背け、解決できる問題を解決するヒーローになろうとした。ロマンチストの彼は彼女を抱きながら暗闇の中で根拠のない希望を語っている。

これらは自分が映画を見て思った感想だ。原作はどうだかわからない。だが危機に対してこれだけ多様な答えがあるということを改めて思い知らされた。この映画のラストは後味が悪い。だがこれだけ多様な彼らの人格や正義を見てからだと、あの結末以外にあり得なかったとも思う。彼らの中で正義と正義が衝突する。分かりやすい敵はいない。その正義は絶対の悪ではなく、半分は道理のあるものだ。この両義性はコメディアンとして象徴づけられており、彼らはそれをジョークというしかない。そしてこのヒーローの両義性は『ダークナイト』を取り巻く問題へと受け継がれる。善悪の両義性を自覚して犯行を行うジョーカー、善悪の両義性を悟るも自分で決められずコインに委ねるトゥーフェイス、善悪の両義性を自覚するがそれでも自分がヒーローであることを証明しようとするバットマンは、この映画を見た後だとより深いテーマを抱えているように感じられる。