人生

やっていきましょう

63日目

1日中何もせずに休んだ。疲労が溜まっていた。勉強のことは記憶にない。すべて忘れてしまった。

今日振り返ることは何もない。勉強について振り返る余力もない。今日はこれ以上何もしたくない。

だから最低限の報告に留める。

今日は勉強に関して自分が抱えていた誤解について書く。自分は以前、勉強をすることが大の苦手だった。暗記が本当に嫌いだったからだ。暗記したものは必ずしも出題されるわけではない。散々勉強した後でハズレを掴まされることもある。

それに覚えたものも当日覚えているという保証がない。当時の自分の目にはそうした不確実なものに左右されることが極めてバカらしいことだと感じていた。

こういうわけで勉強を避けてきたのだが、この認識は間違っていた。勉強とはより洗練された再現性を獲得する過程である。つまり、不確実なものを確実なものに近づけていく作業である。100%確実なものにはなれないが、確実を目指すことで解決できる問題に遭遇する機会はぐんと増える。

自分の誤りは不確実なものを不確実なままにしていたことだ。100%になれないのなら80%も60%も0%に等しいと思っていた。0か100だった。だから世の中は限りなく不確実なものであり確実を目指す過程はすべて無為に帰すと考えていた。

しかし浜辺の波が不安定だからといって、貝殻が明日には溶けて無くなっているだろうか。あるいはヘラクレイトスが「同じ川に二度入ることはできない」と述べたとしても、自分は川の中でとどまることはできないのか。

世の中は不確実なものでありながら、その中でも確実に近いものがある。台風がやってきても大抵の家は吹き飛ばされない。コンクリートの地面は無数の人間の足が踏み荒らしたところでビクともしない。たとえそれらが核兵器で跡形もなく無残に散り得るとしても、我々は家屋とコンクリートを開発しないのか。家屋とコンクリートを生み出すことで対処できる問題があるならば、家屋とコンクリートを開発するべきである。

人類の進歩は不確実なものを確実なものにする過程にこそあった。その中核を担ったものが知識である。知識のある人と無い人ではある人の方がより不確実な問題に対して優位に立つことができる。家屋の製造法を知る人間は知らない人間よりも自然に対して優位に働くことができる。その知識は自身を通じて、一つの場所に留まらず様々な場所に作ることができる。そうして人を集めて村を作れば、もはや差は歴然だ。村人は外で孤立する人間に対してより安定した生活を送ることができる。いつ死ぬか分からない不確実な世界から、明日も食べられる確実な世界へと移行したからだ。

知識によって達成されたことが新たな不確実な要素を生むという場合もある。現代は知的に成熟し、知識が別の知識の足を引っ張るような状況になっている。何が確実で何が不確実か分からなくなるという場合もある。だがそのことが今回の本題ではない。今の自分には、知識がより確実なものをもたらすという点のみが重要だ。今の自分は黎明期だ。自分にとって知の楽観主義は自分の不安を軽減する口実になる。生きることの動機といってもいいかもしれない。少なくとも自分の場合、学ぶことで世界はより安定してくる。だとすれば今のうちは、学ぶことには意義があるはずだ。