人生

やっていきましょう

73日目

最近マーベル系列の映画を頭から漁っている。始めは見応えがあったがこうも機械や魔法やドンパチが続くと観るのに疲れてしまう。宇宙人のハンマー男やフリスビーを振り回すコスプレが毎度のことながらビルや街を爆破しているのを見ると、仕事に疲れた人間が「たまに」観てスカっとするためにある映画だという印象を受けてしまう。そう思うと自分はいつも居場所のないような気分に駆られる。

映画は本来疲れを癒すためにあるのだが、映画を観て疲れているのでは本末転倒だ。だが現にそうなっている。しかもその疲労はエキサイティングな満足ではなく労働の達成感に近い。ノルマをこなす従業員の顔で毎日画面越しの大惨事を冷静に見つめている。

これらは決して面白くないのではない。面白くない理由よりもなぜ面白いかの理由の方が多く説明できる。自分は映画に飽きたのだろうか。半分はそうかもしれない。だがそう断言するにはまだ十分開拓の余地がある。

おそらくこの違和感は自己効力感の無さに起因する。どれだけ映画を見て心の穴を埋めようとも自分は現実に対して何一つ痕跡を残せない、傷を負い心が折れた人間であることを映画が殊更に強調する。現実離れした映画を見れば見るほど理想離れした現実に引き戻される。だから自分は常にアイアンマンにもジェームズボンドにもなれない虚構の映像の傍観者でしかないと自覚してしまう。

ではなぜ映画を見ているのか。実は自分でもよく分かっていない。はっきり言って映画を見る価値はない。映画に限らずこの世のすべてには意味がない。しかしそれでも映画を見ようとする。この点を言語化するのは難しい。自分は価値に対する信頼を完全に失ったが、どこかで痛切に価値を求めている。かつての価値観に代わる新たな価値観で心を補いたいのだ。しかしどこかでそれを拒んでいる。補えるものなどどこにもないからだ。自分は現実主義者だ。しかしそれでも諦めがつかない。だから映画を見る。こういうわけだ。こうしたメンヘラしぐさは一見矛盾しているが、それでも映画を見る強い動機となっている。

現実主義者でありながら理想主義者である人間は、そのアンビバレントな価値の並存をどうにか安定させようとして冷笑家になることがある。自分の場合がそうだ。自分はかつて公正世界仮説や善意の勝利という理想があったが現実の前に崩れ去り、価値観を喪失した。この不幸な事故を自分の中で納得させようといかなる価値も虚構であり茶番であると思うようになった。そして茶番を見るたびに滑稽なものとして笑うようになった。

自分は理想と現実の間で揺れ動き、その均衡を保つように斜に構えて映画を見る。それはそれで結構なことだが、冷笑の材料として見る映画はどこまでいっても不毛だ。自分が楽しいと思うなら素直に楽しいと思うべきだし、そうでないならきっぱりと映画を見るのをやめるべきだ。しかしそうはならない。楽しいと思いながら茶番だと思い、皮肉を感じながら純粋な感動もたまにする。そのことを一斉に認めようとすると自分が自家撞着で優柔不断のバカであることが露見するのであえて認めたがらないが、事実そうであるということを忘れてはならない。自分はそういう人間なのだ。

映画を見て善意溢れるスーパーヒーローに憧れる一方、現実はそうならないから仕方なく虚構の演出を暴いて嘲笑う、こういうのをイソップ寓話では酸っぱいブドウと呼んでいたか。