人生

やっていきましょう

134日目

自分はある時から焦るのをやめた。そうしようと思ってしたのではなく、自然とそうなった。随分前の話だ。

何を焦っていたのか。最低限普通の人間になること。世間の当たり前に追いつくこと。真っ当な人生を歩むということ。何者かになるということ。

自分は世間に未練があった。自分は人と同じ背景を共有してコミュニケーションが取れるようになりたかった。そうなれるかもしれないとどこかで思っていた。

だからそうでない自分に強いギャップを感じ、必死に埋め合わせようと努力してきた。ギャップを埋め合わせなければ、自分は社会人として生きる価値がないと思っていた。

それが焦りの正体だ。だが何をどうしたところで自分は社会に適応できない。理性では共有できても、根底にある感情の共有ができない。感情の欠陥を理性で補おうとして、余計にこじらせた。

何もかもうまくいかず、精神が不安定になり、努力も成果をうまず、もう駄目だと思っていたときに最後の一撃が来た。社会から無能の烙印を押された。それで挫折した。

数ヶ月、今までの人生の中で味わったことのないほどの焦りを感じた。常に緊張状態だった。ここで判断を誤れば社会には二度と戻れないと思っていた。しかしいくら解決策を必死に探しても、結局何も見つからないことがもう分かっていた。それで焦りが止まった。

価値観に対するアプローチは問題解決のそれとは異なる。価値観は解決すべき問題ではなく、自分が何に適し、何に適さないのかということの蓄積として必然に現れてくるものだ。ある価値観、たとえばロック音楽を好きになるという価値観を持とうとしたら、常にロックの話題をしてロックをひたすら聴いたりロックフェスに顔を出すことはできるだろう。だが自分自身がそれを好きになれないのなら、問題解決は偽りの価値観しか作り得ない。

価値観自体は全て偽りのものかもしれない。価値観は人間の後付けで、元々そこに存在しない。だが何に適し、何に適さないかという反応自体は偽りではない。適する対象には愛着が湧くし、適さない対象には嫌悪が湧く。

自分は社会の多数派が共有する価値観に適応することができなかった。自分は信じたかったが、信じきれなかった。それで世間から離れて自分の道を歩むことにした。もう手放しに他人の価値観に追随することはないだろう。

ただ唯一、社会との接点は持つようにした。社会と交流するための窓口を設けた。狭く少ない窓口だ。比較的社会の多数派と交流できる趣味と話題をいくつかストックしてある。今は少ないが、少しずつ増やしていければと思う。