人生

やっていきましょう

140日目

記録に助けられている。記録をつけることで、自分は前進するという原点に戻れる。苦難を乗り越えるという決意を確認できる。ただ最近、自分は前進する必要もなければ、苦難を乗り越える必要もないのではないかということを思い始めている。止まったところで何にもならないが、前進したところで何にもならない。

そう思い始めたのはTOEICの勉強が終わった時だ。あの後すぐに旅の準備をしてそのことについて考える暇がなかったが、旅が終わり次はどうしようかと考えたときにふとそう思い始めた。この数か月間、自分の人生を必死でどうにかしようとしてきたが、ほとんど何も変わらなかった。自分のやりたいことが結局見つからなかった。

それでもう、嫌になった。自分の心の中の「どうにかしなければまずい」という思いに従っても結局何も変わらない。自分は救われないし、昨日と同じことが明日も繰り返される。何かを変えたいという思いがここにきて揺らいでいる。

薄い直感だが、今ここで記録を止めてしまえば二度とそれをやろうとはしないだろう。1日2日開けたくらいなら大したことはないだろうが、1週間、2週間となると、もう元に戻れる自信がない。その先に広がっているのは何となく食べて何となく寝るという生活。気が付いたら5年、10年経っていた、ということになっているかもしれない。

だが幸いなことに、記録は続いている。つける意味が分からなくても、記録をつけているおかげで、自分は1日1日を意識できている。1日という単位で、自分の状態を把握できている。記録のおかげで、自分が頑張ることに僅かな意義を見いだせている。それが話のネタになる程度のものだったとしても。

逆説的だが「何か書かないと」と思うことで、自分は行動できている。人生の前進(と自分で呼んでいる努力一般)について何か書かなければいけないと思って、明日はこういうことをしようと思うようになっている。自分はさほど意識していないが、習慣だから勝手にやっている。気がついたらスマホやpcのアプリを起動して、記録している。

こういう習慣のおかげで、自分は毎日、何かポジティブなことを考えなければならなくなっている。何かにつけて前進することに関連付けるよう誘導される。昨日より今日は一歩前進したという欺瞞を嫌でも思わされる。それで体裁の上では一応前向きに生きているということになっている。

記録をつけるのがアホらしいと思っていても、それで気分が安定し、前進しようと考えるきっかけになれるのなら、記録を続けるべきだろう。最近は惰性で書いているが、ふと何かをやろうと思い立ったとき、記録をつけていたという事実が助けになる。なぜなら記録をつけたすべての日数が、自分が前進に囚われていたことの証となるからだ。