人生

やっていきましょう

176日目

先日の疲れが残っているが、気分は問題ない。意欲は少し高くなっている。何かをしようと思う。とりあえず当面の目的を読書に費やす。いくつか読みたい本があるからだ。それと創作。いくつかアイデアがある。

今日は久しぶりに何かを書こうという気分になれない。何も書きたいことがないからだ。こういう日は何も考えずにただ思ったことを書く。読む価値はないだろうが、振り返った時の資料になる。

今日は少しだけいつもより早く起きた。だがずっと横になっていた。疲れもあって何かをしようという気になれず、とくに起きても何も良いことがないと思ったからだ。デスストランディングはクリアした。トロフィーを集めるだけだが、それをやり終えたらもうデスストランディングに触れる動機が無くなるので留めておく。読書や創作をやろうと思ったが、今日は面倒だと思ってやめた。

寝ながら少しだけ幸せについて考えていた。自分は幸せや幸福というものは虚妄であり現実はつらく苦しいものだということを指摘してきた。このことが間違っていると思わないが、ことさらに騒ぎ立てるほどの大発見でもない。それは日常のすべてを満たし、自分にとって、どんなときでもそれが認識の起点にあるような、当たり前の事実になっている。

欲が年齢に伴って減衰するという話をどこかで聞いた。自分は若さのピークを経てもう既に下降する時期にあるのだろうか?自分はあらゆる点で、諦めないことよりも諦めることの方が好ましいものになっている。幸福が極めて茶番なものであると自分が認めているのは、心が既に老衰しているからだろう。

若さは幸福に対して全面的な信頼がある時期であるといえる。中学の頃、自分はゲームがすべてであり、確かにそこにゲームがあることに幸せを感じていた。だが今は違う。楽しいには楽しいが、こんなことをやって何になるのかという思いが強い。幸福の渦中にある人間は、それが茶番であると気づきにくいという印象がある。そもそも茶番だと思うような人間は幸福に適性がない。

問題は自分が幸福を茶番であると認めながら、それとどう折り合いをつけていくかということだ。現在の自分にとって人生の幸福とは、それが茶番や子供だましであると認めながら、他に何もないからダラダラ遊んでいるゲームのようなものだ。今ではそういう冷めた幸福でしかない。

ふと、一般的な感情を持った。自分と同世代の人間達も、一方では幸せになれた人がいて、一方では不幸になった人もいるのだ。それがどういうものかはさておき、そういうことが驚きだった。同じ一つの学校やクラスにいても、そこに居た人間はその後バラバラになってそれぞれの幸不幸を持つ。その格差はこれから年齢と共に広がっていくだろう。中年になっても夢を見られた人間と、そうでない人間が分かれてくるだろう。金に恵まれた人とそうでない人にも分かれるだろう。老後まで生きる人間と、その過程で自殺する人もいるだろう。自分はそのダイナミックな世界の中のごくありふれた、しかし限られた1単位でしかないということを考えた。

 ここで思考が途切れた。