人生

やっていきましょう

175日目

今日は新しいことをした。先日紹介してもらったサークルのツテで1日アルバイトをした。

結論から言うと悪くはなかった。だが肉体的に結構ハードな内容で1日の体力を使い果たした。これを毎日できるとはとても思えなかった。

バイトを通じて気づいたことをまとめる。まず自分はコミュニケーションに難があると思い込んでいたが、思ったほどに問題が無いことが分かった。同じ問題意識の共有、指示の確認等は、初めての作業でありながらテキパキとこなせていた。難があるとすれば情報の確認が多かったところか。とにかく自分の思い込みを排除して情報を確定させるために何度も確認した。これはやや無駄だったと思う。

厳密に言えばある状況下で意思疎通ができなくなると言った方が適切だろう。それは自分が過度に不安を抱いたりパニックになっている時だ。対人関係においてその問題がほとんど発生していたため、自分は常に意思疎通ができないと思っていたが、問題は意思疎通能力よりも精神面の不安にあるということが特定できた。

おそらく自分は相手を見ていないのだろう。自分が相手と呼ぶものが相手ではなく、自分の中で沸き起こる不安そのものを指しているのだ。不安とは何だろうか。何が不安なのか。それが発生する時は決まって「絶対に失敗できない、失敗したら叱責される、失望される」と思っている。大学時代に支配的だった不安は「自分には選択肢がある。前進しなければならない。ここでキャリアの選択を誤れば人生は破滅する。失敗は許されない。さもなければ最悪自殺しなければならない」というようなものだった。

失敗できない、自分は他人から常に高い評価を受けなければならない、こうした危機感が自分の精神を不安定にし、パニックを引き起こした。だが今はどうか。自分は人生のどん底に落ちた。すべてが壊れた。誰も自分のことなど気にかけない。希望はない。それゆえ自分が失敗できないとはあまり思えなくなった。成功に対するこだわりが完全に消えた。もちろん責任感はあるからちゃんと課題はこなす。だがそれは対価があるからであり、失敗に対する不安はあまりない。どう転んでも自分の人生は終わっている。

皮肉なことだが、精神を壊して失敗に対する偏執を失ったことで、失敗することが減った。怪我の功名とでも言うのだろうか。このことを念頭に相手に対する警戒心と不安を意識的に緩めた。それでいくつか気づいたことがある。人は、少なくとも自分が出会ってきた他人の多くは、完璧をあまり求めていないのだ。仕事もプロ意識からではなく、面倒だ面倒だといいながら雑にこなす、そういう人が多かった。今日働いた同僚も割とアバウトだった。

これは衝撃だった。自分は「相手」から常に完璧であることを求められているのだと思っていた。完璧でなければ自分は常に罵倒され、その徹底の無さを叩かれるからだ。おそらく小さい頃からネット荒らしの中で生活していたことの後遺症だろうが、その「相手」は実際悪口を言ってきた相手ではなく、言われる「かもしれない」という警戒心によって生み出された幻影だった。つまりこの「相手」は自分自身だった。自分が他の誰よりも自罰的であったために、その幻影を他者に投影していたのだ。これほど厳しい枷を自分に掛けているのだから、相手は更に厳しい枷をかけているに違いないと思っていた。だが世間はもっと緩く動いているのだ。もちろん企業のトップや国家議員など、ごく限られた例外はあるが。

とにかく今日は疲れた。体力を使い果たして何も考えられない。雑な記録に終わったが、忘れないうちに書きたかった。なぜなら明日には忘れているだろうから