人生

やっていきましょう

410日目

生きている心地がしない。朝から希死念慮に駆られそれから何度も眠りについたが回復しない。1日中倒れていた。苦痛を感じる余裕もなく、膨大な虚無感が自分に重くのしかかっている。

突発的に2年前に経験した「溶けるような感じ」に襲われた。すべての安定を剥奪され方向感覚を失い宙づりにされるような感覚、どこまでも転落し続け、しかし着地することのない感覚を味わった。こうした過剰な不安に襲われたのは何か月ぶりか。直接的な原因は分からないが、突然すべてが無理だと思い始めてからこうなった。今まで不安を押しのけてきたが、自分は既に弱っており、遂に不安に屈した。

不安を感じやすい人間とそうでない人間がいる。以前ネットの知人に不安を感じたことがあるかと聞いたところ、感じたことはないと答える人間が大半だった。少なくとも何らかの生きづらさゆえに恒常的に不安を感じており、そのことで長年苦しんでいるという人間はほとんどいなかった。自分の所属に基づく偏った情報かもしれないが、自分はこのことで世の大半は人生を不安に支配されていないのだと知った。

不安を感じていない人間を観察していると、いずれも身の丈にあった生き方をしているということが分かった。決して身を壊すほどの全力ではなく、ほどほどの実力(しかし確かな実力だ)で達成可能な世界に生きている。そしてその見方に何ら疑いを持っていない。漠然とした自尊の世界に生きており、不都合な情報をシャットアウトしている。

ここから自分の問題点が見えてくる。明らかに自分は身の丈に合った人生を送っていない。実力分不相応でありながらハードルを下げることをせず、そのために無理をしている。現実と理想のギャップが激しく劣等感が強い。短絡的で何でも全力で取り組もうとする。留まることが恐ろしく、現状に甘んじることができない。それゆえ自尊心が傷つき壊れている。自分を守ることができず、自分に不利な情報ばかりが流れ込んでくる。

足るを知る、身の丈に合った人生を送るということは自分の目には妥協に映る。それが嫌だったのは、自分の劣等感を一刻も早く克服したかったからだ。大した努力をしなくても幸福感が得られるのであれば自分はそもそも無理をしていない。何をしても不幸なので必死にもがいて救われようとした。だが実際はもがくことばかりに意識が奪われ、何のためにやるのかという視点が欠落していた。結局自分は何をすればいいか分からず無目的なままもがき続け、遂には心が力尽きた。

分相応な人生を送る人間たちの、自明の幸福感に嫉妬している自分がいる。だが彼らが責められる筋合いはない。そういう賢い人生を送らず、生涯劣等感に苛まれる人生を送ることを選んだのは自分だ。すべては自分の愚かさが招いた結果なのだ。

彼らの賢さを学ぶ必要がある。自分は身の丈にあった人生を送る必要がある。これは妥協に甘んじるという意味ではなく、地に足のついた思考を行うということだ。何度も繰り返し言及し続けてきたことだが、自分の実力を正確に把握しないまま背伸びをしたり自責をすることは何の解決にもならない。志を大きく持つことは有意義だが、それが小説ではなく現実において為そうとするならば、現実を踏まえた思考が必要になる。実力を無視した目標は長期的に見れば失敗に終わる。自分はそれを身をもって経験した。

認めがたいことだが、未だに不安が恒常化し、精神が翻弄されるほど悪影響を受けているのであれば、一度ハードルを下げた生き方を受け入れても良いのではないかと思う。つまり1年ほど前に掲げた、難易度を極限まで下げた目標を達成することに満足するという生き方がそれだ。目標が問題なくできて初めて身の丈にあっているといえる以上、今までのやり方には再考の余地がある。自分は最近まで無理をし続けていたかもしれない。

しばらく自分の中での目標を下げる。精神が安定するまで無理をしない。焦りは極力抑える。今は自分の判断と責任をもって休むと決意する。