人生

やっていきましょう

1047日目

陰謀論者や宗教家についてまったく別次元の話であるとは思えない。自分がいつそうなってもおかしくないというのは正しい評価である。

日頃から物事に対して知的誠実さを貫徹できる人間は少ない。自分の認識や知識が誤解や無理解を多大に含み得るという可能性を十分に直視し続け、常に自分に対して批判的であり続けるというのは、本当に賢くなければできないことだ。

こうした自己批判は誰にでもできることではない。謙遜無しに、自分もまたそうあり続けようとして失敗している人間である。おそらくほとんどの人間は曖昧で不確かなものに対して、妥当な印象を掴んでおけば良い位の感覚でいるだろう。自分が安易に陰謀論を笑っている時、自分が何となく共有された「正しさ」の大船に乗った気でいることをたまに自覚する。

ふと彼らのようになれたらと思うことがある。彼らは知的誠実さを捨て、自分が思うように世界を認識する道を選択した。知的誠実さが偏見や思い込みを排する冷徹さを持ち合わせているのに反して、宗教や陰謀論はそれらに寛容である。人の誤解や無理解、偏見に対してそれでも良いと言ってくれるのは、すべてを悪の計画とする陰謀か、神の意であるとする宗教、もしくは自己の成長を謳うビジネスセミナーくらいしかない。

人は誰しも真実や不都合な事実を直視するために生きているわけではない。現にその結果として世の中には多種多様な物語に溢れている。自分もまた、能力の限界という不都合な事実から目を背け、まだ頑張れるという妄想を信じたくなる時がある。そしてそれらに没入している時、自分は多少なりとも幸福を感じていた。結局人は幸福を求めて生きている。

自分が思うのは、こうした妄想を強く信じている人はどこかしら幸せだということだ。自分が物語の内側に生きているという感覚は、その人に生きる勇気を与えてくれる。神様が守ってくれると感じられるから、人は危険を顧みず行動し、危機に直面しても尚生きる希望を絶やさない。巧妙に隠された悪の陰謀に無知な大衆は気付けないが自分だけは知っている、あるいはこのセミナーに参加した自分だけが、一流ビジネスマンの流儀を知っているという感覚は、自分を特別な存在だと誤解させ、自己肯定感を高めてくれる。それが事実かどうかはあまり関係ない。

一度陰謀論者の集まりの写真をネットで見たことがある。どこにでもいそうな中高年が何人か集まって組織の旗を掲げていたが、彼らは皆笑顔で幸せそうだった。自分は彼らの背景を知らない。職場をリストラされたか、不幸な病気で家族と死別したか、親の介護で疲れたか。しかしその写真からは人間の力強さを感じられた。

自分には信じられるものがあまりないが、何かを信ずることは人に力を与えるということは認めている。自分には遠い感覚だが、自殺をせず生きるならば何かしら信じられるものがあった方がいいと感じた。