人生

やっていきましょう

192日目

訓練について少し考える。以前も同じことを書いたが重要なことだから繰り返す。

自分は今まで訓練というものを意識して取り組んだことがない。なんとなく繰り返す、それでなんとなく分かってくる。この繰り返しだ。たまたまそれでうまくいったこともある。だが大抵は何らかの壁にぶち当たって失敗する。この次が重要だ。この時自分は何となく失敗の原因を特定する。それによって行動を修正する。何となくうまくいったら放置する。うまくいかなければ同じ調子でもう一度やる。修正できないなと思ったら諦める。

このように自分は何となく訓練を取り組んできた。ある程度のレベルはこれで済むかもしれない。だがある一定のレベルを超えるとそれでは通用しなくなる。訓練という前提が強プレイヤーの間で暗黙裡に共有され、それを持たぬ者は駆逐される。スポーツでも、勉強でも、ゲームでも。これは競争に限らない。自分の目標を高く設定しようとするなら、必ず何となくでは対処できない部分が出てくる。ある一定の動作を適切な状況で出力できる再現性が要求される。

訓練について恐ろしい事実がある。それは独自に技を編み出す以上に知識や作法を吸収する方が効率良いということだ。

たとえばボールを穴に入れれば勝ちというゲームに参加者を数名集めたとする。彼らにそのルールを伝え各自自由にやってくれという。参加者は各々がボールを穴に入れるための試行錯誤を始める。自分のように何となく入れようとする人もいれば、自分が失敗した動作をひとつひとつ修正する人もいるだろう。突然、参加者の一人がゴールにボールを入れるようになった。ただのまぐれのように思われたが、それからも彼は何度も穴にボールを入れるようになった。彼は偶然、ボールに入れるコツを悟ったのだ。

だが問題は彼ではない。彼以外の参加者である。彼以外の参加者は穴にボールを入れるコツを、彼と同じようにひらめくことができるだろうか。それを信じて原始的な試行錯誤を繰り返す者もいるだろう。自分なんかはそうする人間だ。だが穴にボールを入れることを第一の目的にするならば、そんなことをするのは邪道だ。なぜならそこには答えが存在しないからだ。だがたった今、偶然にも目の前に答えが現れた。彼と同じ動作をすれば、環境がひどく変化しない限り、たとえば体育館が地殻変動によって平面から斜面に歪められた場合でない限り、うまくいくはずである。そこで目的を遂行することに野心を燃やすプレイヤーは皆彼を模倣するはずである。その結果、模倣を拒んだ人間との成績差は歴然となっていくだろう。

訓練とは、こうすればうまくいくだろうという先人が見出した知恵の集積を、自分のものにする過程である。型を意識してそれを模倣することが、自分の成果を高めることにつながる。訓練を繰り返すことで、型の出力が容易になる。頭を使わなくても要点をおさえて手軽にできるようになる。訓練で身に着けた技が増えれば、それだけ多くの状況に対応することができる。技の組み合わせで効果を発揮するものもあるだろう。

だが訓練というものには障害、おそらく自分が考える上で最も困難なことがある。それが自分が今まで身に着けてきた技を捨てなければならない時だ。こういう状況はいつか必ず来る。今までは自分の技を効果的に打ち出せばある程度の利益を得られていたが、その技を自分の中心に据え置いたことで、状況に適応できなくなってしまう場合というのがある。そしてその技を捨てた後、まったくのゼロの状態から訓練を積まなければならない状況、こうしたときが最も困難であるといえる。なぜなら手元にはそうしなくても済むような技があるからだ。だから新たな試みを止め、手元にある使いやすい技に頼らず、まったくのゼロから試行錯誤をするというのは相当の覚悟がいる。

自分の場合、我流の技をいくつか持っており、おそらく試行錯誤と反復によって身に着けたものがある。訓練という意識のないこれらの技でさえ、捨てるのには相当の覚悟がいる。それを捨てる、意識して距離を取るということは、自分の生活を大きく変えてしまうほどの大事件だ。自分の今まで当たり前のようにあると思っていた地面が急に消えたような感覚になる。そして自分は、最も破滅に近づいたような感覚に陥る。

何となくが通用しない世界で、何となくを捨てるということは、それだけ恐ろしいことだ。少なくとも初めてそれから離れるとき、何となくを捨てたことを後悔する。本当にうまくいくのだろうかと不安になる。自分は究極のところで自分の外にあるものを信じられないのだ。自分の内側を否定して自分の外側を受け入れることの難しさは絶望的だと思う。

だが今、自分はそれでもそうしなければならない状況にある。事態は深刻だ。自分の当たり前ではもう何も通用しないのだ。失敗続きの原因は、何となくやってきたことに由来する。今までのやり方から距離を取って、意識的に自分を改善しなければならない。訓練だ。意識的な自己改革を自分に課さなければならない。