人生

やっていきましょう

193日目

文章について思うことを少しまとめる。自分は文章を書く時に分かりやすい言葉を書くように努めている。1つの文を短くし、聞こえが良く、読み手が納得のいくように編集する。今ではそれが当たり前のように思っている。

元々はそうではなかった。自分は自分の思いを言葉にしていた。矛盾や一貫性の無さを当然含んでいた。文は冗長的になり、何度も同じ言葉を繰り返していた。だが受験を通じて答案用紙に正答を書くように求められたとき、自分はいかに分かりやすく、要点を示すことができるかということを意識するようになった。そうすることが点数に繋がるからだ。

いつしか自分は文は端的に、要点を抑え、かつ聞こえの良い文になるよう推敲しなければならないものと思うようになった。だが果たしてそれは妥当なことなのか。確かにこうした意識は相手に情報を正確に伝えるためには重要だろう。だが人の思考は必ずしもそういう風に整理されているわけではない。何かをしたいという思いとしたくないという思いが混在することだってある。嫌いでありながら好きであるという印象、批判的でありながら同情的である場合だってある。思考も淀みなく混沌のまま立ち現れることがある。それを人間が後から整理しているだけだ。

最近そういうことをよく考える。Twitterを見ていると読めない文章というものに頻繁に遭遇する。同じ日本語でありながら、読めない文章というものがある。冗長的で論点が不明瞭で何が言いたいか分からない文章だ。こうした文章を前にすると全く読む気が無くなる。

だが読みやすい文章とは、新聞や教科書の文体がそうであるように、極めて公的で、社会的な合意の元に敷かれているものだ。情報伝達が正確に伝わりやすくなるから、皆でこうした言い方をしましょうという約束事にすぎない。そこには他人という視点が常に備わっている。

文章は本来その限りではない。必ずしも社会という文脈に乗せる必要はない。自分にだけ伝わる言葉、文脈、リズム、整合性があって良いと思う。それは必ずしも相手には伝わらないかもしれないが、伝わらないというだけである。伝わらないのであれば意味がないというわけでもない。

 

このようなことを書いた理由は、読みにくい文章を非難し、読みやすい文章を肯定することに危機感を覚えたからだ。読みやすい、聞こえがいい文章というのは、頭を使わないで済む。書き手がそのように設計しているからだ。つまり読み手が良いように誘導されているのだ。セールスマンが商品を売り込もうとしたとき、決して消費者を挑戦するような分かりにくい文章を書いたりはしない。「凄そう」という印象を抱かせるために@@@@@@の成分が含まれている!と言うことはあるかもしれないが、不快になるような読みにくさを与えることはほとんどない。

少なくとも自分はそう思う。世の中にはうまく説明しにくい現象や、聞こえの悪い事実がたくさんある。それをあたかもそうでないかのように編集するのは注意がいる。そうした聞こえの良い言葉で作られた言説は、分かりやすいかもしれないが、分かった気にさせられているものだ。注意を惹く部分が強調されていたり、整合性を乱すような要素を敢えて見せないようにしているかもしれない。