人生

やっていきましょう

197日目

2019年が終わる。1年があっという間に過ぎた。丁度1年前の今頃は卒論を終えて卒業を待つばかりだった。それから6月までの記憶がない。毎日死ぬと考えていたこと以外、ストレスでほとんど何も覚えていない。記録を付け始めた時から記憶がある。だから実際半年分の記憶しかない。

最近ふと思うことがある。自分が悩んでいた数々の問題は、世間からすれば些細なことなのだろうか。自分は出会ってきた大勢の人間からあなたは考えすぎだと言われる。自分からすればなぜ考えずにいられるのか不思議でならないくらいだが、それだけ自分が世間一般からズレているのだろう。

自殺について、無意味であることについて、コミュニケーションについて、自分は何度も考えてきた。考えれば考えるほど分からなくなる。確かに考えない方が良いのかもしれない。その方が幸せだ。だが自分はどうしても考えなければならなかった。そうしなければ自分は生きられないからだ。

時々彼らを恨めしく思う時がある。日々の暮らしのささやかな幸せに反応し、自分が楽しいということを誰かと共有しようとする。自分がありのまま生きているだけで肯定されている。だからこそ生きる喜びを享受できている。

自分はそうではない。自分はこの世界に歓迎されていない。自分に与えられているのは苦痛だけだ。ありのままでいれば協調性を疑われる。自分の意欲をすべて殺してようやく適応できる。ただその代償はあまりに大きい。自分はもう生きる希望がない。

自分は間違っているのではないか。彼らのように前向きに生きることが本当は正しいことなのではないのか。消費に満足を見出すことが正しい態度ではないのか。サービス精神に溢れ、誰かのために働きたいと思うことが正しいことではないのか。既存の制度やサービスを当たり前のように受け入れることが正しいことではないのか。誰かの幸せに対して本心から「おめでとう」と言ってやれることが正しいことではないのか。これらの疑問が生まれる理由はただひとつ、現状として彼らは自殺するということを全く考えておらず、自分は切に考えている(この「彼ら」というのは自分の主観が生み出し誇張した幻想である可能性がある。だから弁解しておくが、おそらく彼らにも苦しみや悲しみ、自殺といったことを考えることはきっとあるだろう。だがそれでも、自分は人よりも自殺について考える時間が長いと断言できる。要するにこれは相対的な度合いの問題にすぎない)。

自分はこの1年生きている理由がまったく存在しないまま努力し続けた。様々のことをやってきた。だがどれも、自分の何かを決定的に改善するものにはならなかった。自殺について考えない日はないが、わずかに緩和した程度だ。

自分はこの事態を切実な問題だと受け止めている。だが世界は穏やかに、何事もなかったかのように動いている。誰かに自分が今死にかけているということを知ってほしい。そういう根源的な願望が、日頃押さえつけている自分の理性を飛び越えて突然やってくる。そういうとき、自分は彼らと同じでありたかったという本音がうっかり出る。

だが今までそうした弱弱しく、ためらいのある願望を誰かと共有しようとして、うまくいった試しがない。自分に疑いのないネットの人間には笑われたことがある。現実で叫ぼうにも理性がそれを押さえつける。自分の痛切な悩みは誰にも理解されない。

奇妙な話だが、おそらくそれは自分が男だからだ。男は決して誰かに同情を求めてはいけない。求めてもいいだろう。だが与えられることはほとんどない。男は同情ではなく解決策の提示によって憐みと期待を示す。自分を笑った知人でさえ、解決策の提示には前向きだった。結局自分自身がその問題と向き合わなければならない。そして壁を乗り越えなければならない。そういう風に自分は思うようになった。

こういうジェンダーロールに基づく話に自分は慎重だ。男だからこう、女だからこうというのはあまり言いたくない。だが同情や慰めといったものに関しては、男が割を食うと思っている。古い価値観かもしれない。男が助けてと言うのは恥だとか、男は耐え忍ばねばならないとか、涙を見せるなとかいったものは。今では女性でもこうした考えを持つ人もいる。だから一概には言えないが、他にそう呼ぶべきものを知らないため、便宜上"男は"と呼んでいる(今ではマッチョイズムとでもいうのか)。

別に性差について議論したいのではない。要するに自分は強くなりたいのだ。自分の不安、恐怖に打ち勝つ強さが。極めて原始的な感情だ。誰も手を貸してくれないのであれば、自分の力で強くなるしかない。単純なことだ。孤独に耐えうる強さ、無為に耐えうる強さ、自殺しない強さ。それが欲しいだけだ(いうまでもないが、これは自分の価値感であり、この対極が弱さであるということは必ずしも意味しない)。

無論別の方法もある。挫折し傷ついた人間同士慰め合うということだ。確かにこれは優れた方法だ。自分も経験して分かった。似た者同士、お互い助け合うことは十分救いになる。だが自分はいつまでも慰められていてはいけないと思っている。彼らに救いを求めれば求めるほど、彼らと自分の価値感のズレが気になり対立的になる。そして弱者である自分こそが、この場所に相応しいと激しく主張し合うようになる。だから自分は依存的になるのではなく、多少は自立する力が欲しいと考えている。

2019年は(主に6月以降だが)自分が強くなると決意した年だった。2020年も当然その決意を持続させる。そのための第一原則として、自殺をしないという制約を自分に課す。この制約を社会善に当てはめるつもりはない。自分はこうするといった選択でしかない。だがこの選択によって自分はあらゆる生きる努力を正当化できる。

何度も繰り返すが、こうした考え自体無意味で不毛なものだ。価値の後付けと再三繰り返してきたが、これもその程度の意味でしかない。強くなることが絶対でもないし、生きることが絶対でもない。弱いままでもいいし、死ぬことが正当化される価値観だってあっていいはずだ。だが自分は、生きるというラベルを自分に貼った。そのラベルは挫折に対する今までのダメージを前提にした上で、それでも自分がエネルギーを費やすだけの価値があると踏んだ。そういうわけでまだ生きている。ただそれだけにすぎない。