人生

やっていきましょう

157日目

創作について少し考えていた。

自分は創作をあまり楽しいものだとは思っていなかった。自分にとって創作とは、不安の正体を突き止める過程に等しかった。自分の内面に覆われている不安を描写することで、それを客観的に捉えようとしたのだ。主人公は決まって一人称の自分だ。物語を設定したらあとは勝手に泳がせる。その時々で取る行動によって、自分がどうありたいのか、不安をどう克服したがっているのかを観察しようとしていた。大抵それは苦痛な作業だ。だからそれらが全く楽しいとは思えず、呪詛を吐くような気持ちで書いていた。

一方で、創作を楽しんで書いている人たちがいる。創作が楽しいと本気で思っているのだ。彼らは純粋にキャラクターを描き、ストーリーを描き、設定を描くことに満足している。自分の思いついたものを思うがままに動かすことを心から楽しんでいる。

このことについて以前記録した記憶がある。今でも同じことを考えている。結論はこうだ。彼らの心は生きていて、自分の心は死んでいる。自分はなにも楽しいとは思えないが、彼らは楽しいと思えている。

それから自分はしばらく創作から手を引いた。何を作ったところで、自分はそれを見たくないのだ。なぜならそれは自分の不安の投影だからだ。呪いの言葉を延々と聞かされるようなものだ。

 

だが最近別の見方をしはじめた。自分の不安を投影するような創作にこだわるのはなぜだろう。なぜ自分が面白いと思う創作をしないのだろうか。

答えは簡単だ。自分の興味や面白さに自信がないからだ。自分が面白いと感じるものは極めて低俗で、価値のないものだと考えている。それを人様に見せることが恥であり苦痛であると感じているのだ。

反対に、自分の不安を投影するような創作は嘘偽りがないように思えていた。だから多少は価値があると思っていた。最低限人に見られても良いだろうと思っていた。だからそれを優先していた。

だが本当のことを言えば、自分の心の不安を誰かと共有したかったという動機があったようだ。自分が言うのは憚られるので、仮想の人間に物を言わせて同情を誘っていたのだ。誰かが分かってくれることを期待したが、それもうまくいかなかった。分かるわけがない。自分が同情してほしいくせに、同情を誘うのは女々しいから、敢えて同情に見られないように書いていたからだ。意図してそうしていたわけじゃない。無意識にそうなっていた。無意識のうちに同情を求める気持ちを抑圧していた。以前の自分にはそれが分からなかった。

 

やはり自分は人から良く見られたい人間なのだ。人の目が気になるからといって、自分が面白いと思うものを全部殺してなかったことにする。そういう人間だ。ありのままの下劣な自分を隠し、お高く留まった上流仕草で自分を偉く見せたつもりになっている。そうすることで不安から目を背けたいのだ。

だが自分には分かっている。自分がどれほど人から良く見られたいと思っても、自分が面白いと思うものをすべて殺して善良な人間を演じたとしても、人の目は何の助けにもなってくれない。自分が今まで人の目を気にして生きたことで、得をしたことはひとつもない。彼らは自分を居ない存在として扱う。ただそれだけである。

人の目を気にして生きるということがとてつもない機会の損失であることが、ここ最近の習慣づけからよくわかってきた。人の目を気にしていたら創作も、運動を突然始めることも、一日中ゲームや映画を楽しむこともできなかっただろう。それらは恥ずかしく映るからだ。

だが習慣づけをすることで分かってきた。自分は自分の選んだことをして良いのだ。世間が何を言おうと、どう思おうと、それに従うことがすべてではない。自分が納得した道を選ぶことができる。映画に意味はあるか。ゲームに意味はあるか。運動に本にTOEICに意味はあるか。おそらく意味はない。だがどれも自分が納得して選んだものだ。納得して取り組んだ時、過去を振り返るとそれらは自分らしさを帯びている。

創作も同様だ。創作は不安だけを書かなければならないものではない。どんなに低俗なものであれ、人からつまらないと思われるものであれ、それを作ってはいけないというわけではない。納得した限りでは何を作っても良い。賞賛されることも同情してもらえるとは限らないが、それだけを求めてのみ書かなければならないのではない。自分が納得するならば、自由に書けばいい。その結果何が生まれようとも、それは何らかの形として残るだろう。