人生

やっていきましょう

220日目

今日は道を完成させた。柵と地蔵を建てて微調整を行った。だがそれ以上やる気にならなかった。それで今日は終了した。

自分がしていることの意味が分からなくなっている。創作を続けたところで、自分は何も満足していない。虚しさだけが残る。

自分はもう何も楽しめないのではないか、と思う。生きる喜びというのをこのところ感じたことがない。自分は生きることに満足している人間たちを羨ましく思う。彼らは自分の行動が無意味ではないと信じている。

Twitterを見てひどく苦しくなる。一日一日の些細な出来事に喜びを感じる人間たちがいる。彼らは自分を正当化するあらゆる根拠を持っている。自分にはない。自分はこんな創作に2週間も費やしておきながら、自分を正当化する動機にすらなっていない。

もちろん自分は彼らの何も知らない。彼らも身の上の不幸を克服するために必死で楽しもうとしているだけかもしれない。あるいは何も考えていないかもしれない。だがともかく、そうした喜びに対する素朴な態度は自分の心をひどく苦しめる。自分がかつてそうであり、今はそうでないという現実を無情にも突きつけるからだ。

これは自分に責任がある。自分のアカウントはあるオンラインゲームのユーザーを限定してフォローしている。ゲームのチャットで軽く知り合ったフレンドをフォローしていた。だいたいそれが今70人ほどになっている。だがそのあたりから違和感を感じ始めた。価値観が合わないのだ。彼らとtwitter上で交流することはほとんどないが、日常的な出来事に対するつぶやきを見ると苦しいものがある(おそらくそれは口語の上に自分の価値観と感情を乗せたものだからだ。自分は文章が見たいのであって人間の感情が見たいのではない)。

だがそれでもはじめのうちはそれを面白がっていた。文化の多様性を見ているようだった。自分のおよび至らぬ趣味を持つ人がいた。ファッション、料理、パチスロ、漫画、酒、占い、音ゲーなどは自分の視野の外であり、自分の外にある価値観に出会えたことは新鮮だった。また旅行、漫画、ゲーム、クイズ、memeなどは、自分の中にそれらに対する関心があるということを気づかせてくれた。

だがそれでも、自分と似たような価値観に出会うことはなく、心の重苦しさが増すばかりだった。最近ではほとんど絶望に近い感覚を覚えている。全員ブロ解すればいいのかもしれないが、自分にはそれをする勇気がない。取り返しのつかないことに対して自分は決断できない人間だ(ここが自分の弱さだ)。

自分は耐え切れずリストを作って、FF外の自分の価値観に合うアカウントだけをそこに入れた。以来自分の関心はそこにしかない。たまにタイムラインを見ることもあるが、自分はそこで何とも言えない恐怖に駆られてしまう。

だが自分はアカウントを変えるべきだろうか。おそらくそうしないだろう。これが現実だからだ。あらゆる価値観が共生する現状から目を背け、自分に都合の良い価値観だけを見るのは弱さだ。受け入れがたい価値観を受け入れることができなければ、自分は現実的な判断を放棄したことになる。もしそうなれば、自分の頭の中と社会の流れはまったく別のものになってしまうだろう。そうなれば自分は自分の偏見によってすべてを把握するようになり、思考の制御が利かなくなる。自分はそれを望んでいない。

フォロワー内の価値観は失望と挫折を前提としていない。おそらく社会全体の多数派もそうした考えだろう。だからといって社会の多数派を否定する理由にはならない。また彼らを見て自分を否定する理由にもならない。彼らはただ生きることに絶望していないという点で素朴であるだけにすぎない。そのことを十分吟味せよ。自分の失意や劣等感を妬みや怒りに変えてはならない。

承認欲求を創作の動機としてはならない。自分は精神が死にかけており藁にも縋る思いだが、それでも他人に期待してはならない。今回定めた自分の目的は、任意の目標に従って合理的な判断を下し、自分の実力によって問題を解決できるかということを確認するということだった。それによって自分の意思決定に初めて自信が持てるということだった。承認欲求が目的ではない。自分のアイデンティティの欠乏状態から、どうにか自分らしさを取り戻すというところに目的があった。初心を忘れてはならない。