人生

やっていきましょう

227日目

精神が不安定になり開発を一時中断した。こうして記録しているときは幾分精神も安定しており、正確な現状認識を努める行為には一定の安静効果があるように思われる。とはいえ不安とは記述の外で起こることであって、今こうして記録できているほどには正確な認識を持てていない。過去への怒りと未来への失望、挫折、後悔、哀しみ、苦悩という負の感情が激しくぶつかりあい、混沌の渦の中で暴走し、自分を制御できなくする。

これらの暴走に対する今日までの試みは、不安に対して「いかに合理的な解釈で立ち向かうか」というものだった。不安が生じた際に、それが起きたのは「睡眠不足のせいだ」とする。または「運動していないせいだ」とする。あるいは「ある特定可能な不安要素に対して、これまでの対処法ではもはや通用しなくなっている」と考える。そして次に繋げるのは「ならばどうするか」というものであり、そこに間髪を入れず具体的な対処法を記憶の中から探索する。問題は概ね過去からの引用と、その組み合わせによって「改善」される(これは究極には改善であって解決ではない)。そのため不安が生じた際には探索と組み合わせが最も初歩的な戦略として機能する。

このような一連の流れは、かつて自分が1年前に挫折したときとは比べ物にならないほど自明のものとなっている。それまでの自分は混沌を混沌のまま放置しており、偶然的に遭遇したある適応可能な範囲に吸い寄せられるのを待っていたのである。今思えばそれは狂人の所業にひとしいものを感じる。だが今はそうした直感を使わず、こうした条件反射の思考、すなわち学習によって学び得た「概ねはずれることのない」定石を戦略に据えている。この理路こそが混沌の世界の中に唯一の安定をもたらしている。

つまり、不安が生じたときに何をどうするかということを、自分はもはや考えていないのだ。不安が来たら反射的に対処法を考案する。考案というほど画期的なものではない。すべては参照だ。懸念すべき事案が渦巻く状況で自分は「とりあえず」と宣言してすべてを切り離す。そして出来の悪い頭で集めた陳腐な解決法をもって虚構の安定を生み出して自分を慰める。自分はこの反射的な解決法に自分の思考の挟む余地を与えていない。その結果、不安がそもそも存在しないものとして忘却している時間が増えた。

不安について考えない時間が増えてから、なにかを自由に解釈する機会が減った。自由な解釈は自分を本来の混沌に陥れ、不安を思い出させる。だから解釈を回避する。この膨大な砂漠には一本の公道がある。この道はある交通計画によって敷かれたものである。道は、道を作ることによって安定を享受することを望む者によって企画され、作られたものである。砂漠には無数の地雷と罠が仕掛けられているが、自由はある。だが公道にその危険を挟む余地はない。この道を歩む限り、あるいはこの道が建設された当初に期待されている、安全が保障された状況下に限り、この道は安全である。それは相対的に見て道なき砂漠よりは安全だが、世界はひどく閉ざされている。

この古典的なジレンマに自分は日々遭遇している。冒険とは意図して道を外れる行為である。流れに乗り、標の示す方向に従いひたすら歩いていく行為から外れ、不毛な大地に自らの道を敷いていく。そういう苦行だ。自分にとって外の世界を踏み歩くことは、それまで隠し通してきたパンドラ箱を開けることであり、世界が混沌であるということを再び暴露する行為に等しい。かつて自分は積極的にその箱を開けてきた。自分はその行為を勇気と讃え称揚した。だが致命的な深手を負い、瀕死の状態で命からがら道に戻ってきた。失意の中、道という閉じた世界の中で理想郷を創り上げ、その中に埋没することをよしとした。そして問題解決という神話のもとに、自分の思考を機械のように扱った。ここではすべてが予め決定されていることであって、完全に統御されている。衝動もなければ自由もない。

なにかが違うと感じる。道の中に作り上げた安全地帯の中の理想郷、世の情勢、混沌を度外視した虚構の王国。その中にあって、自分のかつて求めていたものを並べ立て、自らの伝統という名をもって神聖化する行為に自分は没入できていない。自分はそれを否定はしていない。むしろ望んでさえいる。にもかかわらず、現実は混沌であるという事実を、ふいに突きつけられる。自分はそれを決して見て見ぬふりをしない。

不安はある。不安要素となるものは確実に、至るところにある。それを反射的に見ない、存在しないと思い込むのは正当な防衛反応だ。ではそのまま夢の世界を構築するがいい。自分の理想の王国を絵なりゲームなりで表現すればいい。しかし自分の違和感はどう説明するのか。解釈を極力抑えはずれのない思考を繰り返す。それもいいだろう。だが自分はそれを無かったことにはできない。それに気づいたとき不安の波が自分をさらっていく。忘却していた混沌の中に、自分を引きずり込む。

自分は混沌の中の自由が欲しいのか、制限の中の安定が欲しいのかわからない。今の自分はもう不安を味わいたくないという思いで満たされている。だがそうでありながら、自分が自分の都合の良い思考の中に埋没させる明白な根拠を何一つ持っていないということを自覚している。苦しい。何もできない。自分は現実というものを忘却できない。自分はどうしても救われない。問題解決という漠然とした指標があり、それに続いて歩いている。だがそれは救いにならない。

 

この問題についてこれまでいくつか述べてきたが、曖昧な言葉を述べるばかりで何ひとつ厳密な状況を指摘していない。論点が定まらず、言葉の渦の中からどうにか葛藤を表現しようとした。だがそれは不適切だ。もう少し問題をシンプルにする。

まず前提として、かつての自分は常道から外れようとしていた。自分は人間として問題なくこの世に生まれたが、様々な要因から精神を歪ませた。たとえば学校の模範を自らの信条にしなければならなかったこと。その信条に対する矛盾に頻繁に遭遇しなければならなかったこと。あるいは周囲からの期待、圧力(という妄想)。自尊心の欠落。これらの歪みを納得させるには、常道の説く広く一般的な答えでは満足できなかった。自分個人に対する、何か特別な意味付けを持たせられる解釈を心から望んでいた(そして自分が認めたくない本音を言えば、どこかそれが権威をもち、自分が広く承認されることを望んでいた)。そうすることで自分の歪みは清算され、自分は救済されるのだと思っていた(これは対極から対極を結論付けるという論理の飛躍だ)。

この試みに対して、敢えて人と違うことをしてやろうという思いはなかった。ただ自分に従おうと思っていた。自分はどのみち人と同じにはなれないのだから、今の自分を強化することで自然に異質になるのだった。だが一方で、自分の本心として、自分は人と同じでありたいという渇望があった。自分のこの考えを、苦しみを、誰かに分かってほしいという思いがあった。

この2つの矛盾した考えを自分は今でも持っている。自分を強化すればするほど自分は異質になる。自分はそうすることで、自分の納得に一歩でも近づけるという確信があった。一方で自分は誰かに自分のことを分かってほしいと考えていた。自分の判断に自信がない。自分が正しいということを、自分だけでなく他人にも保証されたいと考えていた。矛盾している。明らかにここに不安がある。どちらにも行けない。どちらにいっても自分は不幸になる。どちらを選んでも、もう一方の選択肢が頭をかすめる。そしてその選択を究極のところで忘却できない。

自分を強化する旅は冒険であり、混迷の中に自分の身を投じることにある。そこに自分の納得というあるかもわからない源泉を探し求めることになる。だが自分はもうそれができないほど傷ついている。そういう時に有力になってくるのは、他者の承認を求める欲求で、とにかく自分の悲痛な叫びを誰かに届いてくれと弱々しく懇願することしかできない。自分は本来は歪んだ人間ではなかった、後の不運でこうなっただけだと弁明をするほどになった。情けない。だが不幸にも、既に歪んだ人間の言葉は誰にも届かない。

そこで自分は自分の起源をさかのぼり、自分がかつて好んでいた趣味が、他の人間達が好む趣味と同様に、ありふれて、素朴で、誰かと共有可能なものであったということを証明しようとした。そしてそれを現実に再現することで、誰かと自分が分かり合えるという期待を持った。だがそれも失敗した。趣味のつながりはできた。あるいは未だ着手していない趣味についても同等のことができるだろう。だがそれらは社交の趣味であって、それ以上ではない。趣味を持つということは、趣味という共通項の範囲において誰かと共有し合えるということ以上のことを意味しない。その背後にある認識の差、不一致については解決できない。

ここに情報の非対称がある。自分は大いに挫折したが、そうでない人間もいる。そうでない人間にとって、自分の挫折と苦しみは煩わしいものである。それより趣味で共有した方が楽しい時間を過ごせるだろう。確かにその通りだ。だが根本で分かり合えない。自分が苦しみの中で生きてきたという事実を、目の前の無邪気な人間(自分がそう見えているだけだが)はありのままの姿をもって否定する。それが苦痛だ。自分はこの分かり合えない苦しみを、自分の独自の文脈を発見することによって救済させようとしてきた。にもかかわらず、自分は今、誰かと共有できる文脈を発見しようとすることで救済されることを望んでいる。皮肉だ。だがそれは実らない。そしてまた他人に失望し、自分独自の文脈を探す旅に出るのだろうか?これでは堂々巡りだ。

 

この葛藤の中で自分の現時点での立ち位置をはっきりさせておく。まず自分の歪みを納得させる価値観は探し続ける。それがどれほど苦しいこと(なぜなら自分はあらゆる価値観は究極的に無意味であるという前提を自覚している)であっても探し続ける。他人とは内面では分かり合えないと知った。だからもう他人には期待しない。

一方で分かり合える部分については分かり合うという立場をとる。それは部分的なものかもしれないが、その限りでは分かり合えたということになる。それを否定する理由はない。自分は自分の苦しみを100%分かって欲しいと思っていたが、10%でも1%でも理解してもらえるのなら、運が良いと判断することにした。

他人より自分を優先させる。自分がしたいと思ったことは極力する。それがかつてやりたかったことで今はそれほどやりたくないことでも、どんなに茶番じみたことでも、ほんの僅かにやりたいと思ったらやる。

思考の余地を挟まず問題解決の定石に従う。問題解決は自分の解釈の自由を奪う。確かに自分は一定の規則に従って思考を切り分けている。だがそうすることで得たものが大きいと判断している。今までの混迷の中では見えなかった視点、思いつかなかった発想が出てくる。それが自分の苦痛を解決とはいかなくても改善する契機になるのではないかという期待がある。だから思考の自由を抑制し、ひとまずは問題解決の思考に準ずる。

そして安定の欠落が早急に解決すべき問題だったことを忘れてはならない。問題解決は自分の独自性に関する好奇心を鈍らせ、自分が適応できない人の群れへと引きずり込むだろう。だがそれにしても、安定への投資を怠ると破滅の道しかない。それを身をもって経験したのではないのか。安定に転向せよというのではないが、少なくとも安定志向のもたらす効能については一定の評価をもっていい。安定とは、無謀な選択を極力そぎ落とすことで、未然の事実に対する不安を軽減することである。だからいかに問題解決が自分に納得を与えてくれず、あらゆる価値をまったく保証しないという点で滑稽に見えたとしても、それを手段と割り切って使い続けなければならない。

これらの選択は常に有効であるとは思っていない。現時点で、自分が考えられるなかで妥当なものといえばこれくらいしかない。だからこれを選んでいるにすぎない。だがともかく、現時点ではこれに従う。そう決断した。