人生

やっていきましょう

235日目

1週間経った。当初の予定だったGB Studioの仕組みを確認すること、ゲームのデザインや世界観をまとめることができなかった。代わりに音楽の変換法について考えることとなり、そこでかなり時間を食うことになった。

だが簡単な作曲を1週間やってみて、単純な曲なら作れそうだという自信につながった。これは1週間前の自分には信じがたいものだった。眉唾物だが、簡単な音の周期と組み合わせで誰でも曲は作れるのだ。

難しい課題を先に取り組んだおかげで肩の荷が降りた。残りの2つは動画を見て想像力を働かせれば簡単に終わる。少なくとも音楽よりはそう思える。

空想について注意する必要がある。空想を自由に任せると収拾がつかなくなる。ある程度テーマを決めて、その中で自由に考える必要がある。たとえば砂漠であれば砂漠の中でイメージを完結すべきであって、その砂漠が火山や森や地下室や宇宙と繋がっては一向にまとまらない。砂漠の中に敢えてそれらを置く前に、砂漠という最も基底のイメージを揺らがせないようにする。そうしなければいつまでたっても何を描こうとしているのか見えてこない。

これまでの習慣と努力から煩雑で無秩序なイメージの中に合理的な枠組みを刷り込ませることに何度か成功している。これは何かを作るうえで重要な役割を果たしていると考える。空想を具現化するには何らかの現実的な形で「妥協」する必要がある。作ろうとしている対象のイメージが刻々と変化するのでは方向性が定まらない。ある程度イメージの変化に歯止めをかけて目標を固定化するべきだ。そのために理性がある。

 

ところで創作をしている間、つねに自分と向き合うことになった。自分は今なにをやっているのか。こんなことをして何になるのか。無意味だと悟ったばかりではないか。娯楽を金銭に変えるつもりか。それで食っていけると思っているのか。

これらの問題に対して自分は明確な答えを持っている。創作に意味はない。厳密にいえば自分が創り与えようとしている意味を信用できていない。また自分の生み出した創作が金になるとは思っていない。収益化するならもっと情報を集め、本格的に武装し、ビジネスでやっていく自覚を強く持とうとするだろうが、自分らしさの構築の過程で生み出されたジャンク品はそれらの文脈からは程遠いところにある(これらは車輪の再発明に近く、大抵の場合既知の手段に忠実になれば誰でもこなせるようなことである)。

何かを焦っている。創作には意味がない。意味がないことに時間を費やしている。「こんなことをしている場合ではない」。もっと社会的に価値のあることをして、自分の肯定感を満たすことをしなければならないはずだ。自分はまだそこに意味があると信じたがっている。

自分は実家ではなく東京にいるはずであり、無職でなく働いているはずであり、自明性の喪失ではなくただ中にあり、孤立ではなく迎合のなかにあるはずだった。そうして自分が社会から承認されなければならなかった。そう考えていた。

今やその理想とは真逆の方向に進んでいる。エゴの塊のように自分勝手な生活を送っている。家族の家と金に寄生している。挫折を勲章に何もしない特権を得たかのように振舞っている。自分が横暴になる。どんどん社会性が失われていく。

このままではいけないということは一番自分が分かっている。創作に身が入らないのは、やはりそれが逃避の口実であるとわかっているからだ。立ち向かわなければならないのは現実であり、最終的には空想ではなく現実の方を向かなければならない。

自分はもう既にいくつかの点でそれが可能であると言える実力を持っている。ただ不安、先の見えない恐怖、といったものを克服するにはまだ不十分なようだ。時代が刻々と変化するなかで、先の見えない恐怖、安定の不在といったものに頭をかき乱され、明確なビジョンを抱けないでいる。

この古典的な不安を克服する術を自分は知らない。かつて戦士は勝利の女神は我にありといって勇敢に戦った。あるいはどこかの国の民は、守護神が自らの共同体の繁栄を維持すると考えていた。今はその神と呼ぶべき救済の信仰が消え失せ、人間は己独りで答えを出さねばならなくなった。自分で不安を手懐け安心を与えなければならない。

この不安が創作ごときで克服されるとは思えない。だが他になにをすればいいのか。自分が現実と戦い、不安と戦い、克服しようとしているとどうやって証明すればいいのか。自分はまだ、自分の人生を諦めきれていないとどうやっていえるのか。自分には分からない。働けばその不安は解決されるのか。ゲームで強くなればその不安は解消されるのか。「自分のやりたい/やりたかったことをやる」という虚構のいいなりになればその不安はなくなるのか。

何も答えが出ない。あれほどもがいていても自分には何もわからない。ただ自分が創作という安全圏のなかで、主体性を回復しようとしているという事実だけは評価できる。主体性を確立することで自分の不安は緩和される。そこに疑いの余地はない。

だがそのことを妄信するほかにないのか。