人生

やっていきましょう

46日目

不幸の渦中にある人間は自分が悲劇の人であるかのように嘆く。しかし悲劇は自分の身の回りで完結しており、必ずしも人がそれに同調するわけではない。にもかかわらず、自分の不幸はいっそう深刻に見えるものだ。

最近気づいたことだが、自分は自分のことしか見えていなかった。自分の不安が最大の関心であり、その不安をどう抑えるかということばかりを考えていた。不安とは叱責される恐怖、悪意に翻弄される恐怖、自分の言動が理解されない恐怖、誤解される恐怖だ。

不安を抑えるために人に優しく接し人の言いなりになり、人に同調してきたが、他人がどう思いどう感じているかということを全く考えていなかった。まず不安があり、次に許して欲しいという思いがあり、そうして許される条件を自分で勝手に見いだしてから、その言い分をもって利害の衝突を避けようとした。自分はいつでも、他人が問題ではなく自分の不安が問題だった。

そのため、人助けをしたいとか、誰かのためになる仕事をしたいという人間の感覚が全く理解できなかった。そういう善意を抱ける人間はよほど恵まれた生活を送ってきたのだと思う。しかしこの感覚を多くの人間が口を揃え、目を輝かせながら訴えているのを見ると、善意は本来人間が培うべき能力だったのだと思わせられる。彼らの態度こそ実に社会に求められるものだからだ。

中学の頃から、自分と周りの圧倒的な違いはそこだと気づいていた。自分は他人を思う気持ちが欠落している。欠落しているにもかかわらず、正しい側に立ちたくて善意を自分に無理強いしてきた。今でもそうだ。他人の気持ちを考えられない自分が他人のことを考える強迫観念に襲われている。でもだからといって善良な人間にはなれない。いくら取り繕っても善意は自分に存在しない。人間として最低限扱われるために守らねばならない規範があるだけだ。

思いやりの気持ちがないまま、思いやりの結果だけが残される。これは偽善だ。だが悪意ではない。善意がないとはいえ、自分はサイコパスでも無関心でもない。不安だ。不安が悪意と無関心を超えて常に存在している。不安を抑圧するために規範を敷いて麻痺した善意があたかも機能しているように模倣した。そうして自分が不安ではなく善意を根拠として善行を積んでいるという印象を周囲に植えつけた。社会に溶け込む上でこれは避けられないことだ。

だが完全に模倣できたわけではない。規範を敷いたことでかえって自分の精神は不安になった。常に誰かに監視されているような気分になった。違反には重大な罰があるような気がした。本当にそうであるはずはない。しかし自分が抱いている恐怖と不安を表現しようとするとき、大抵まず先に浮かんでくるのが監視と罰というイメージだ。

自分の頭の中には次のような信条があった。自分は悪である。思いやりが欠落しているためである。社会は悪を駆逐する。悪は裁かれる。したがって人並みに生きようと思うならまずは善意を抱かなければならない。しかし自分に善意はない。よって最大限の譲歩として、自らの利益を求めることを禁じ、利他に徹し、善良な人間であろうと努めよ。そうすれば自分は生きるに値する。

罪人の改悛というのが自分の人生における重大なモチーフだ。だから監獄と病院には妙な愛着がある。キリスト教にも親近感がある。これらの共通点は、悪い人間が機関の適切な施しを受けて正しい人間になるというものだ。

しかしこれは単なるお伽話だ。自分はどれだけ善意を望み社会の側に立とうと思っても救われることはない。なぜなら何をしても不安が取れないからだ。自分はいつも自分がここにいて良いという根拠がどこにもないことに驚かされる。自分の心ない善行がその根拠になるとでも言いたいのか。しかしそんなものは気休めでしかない。自分が本当に必要だったのは心ない善行でも罪人の改悛でもなく、自分の本心と向き合うこと、その本心を守るために戦うこと、対立を恐れないことだ。以前知り合いと意見が衝突した時、自分の理解の無さを茶化されたことがある。自分は自分の理解を超えた視点を恐れた。だからそうかと思い、いつでも譲歩した。だがもうそんなことはしない。自分は自分の非を認められる根拠を得るまで決して詫びない。常に自分に関する物事の決定権を自分に持たせる。その責任は自分が持つ。

皮肉なことだが、善意ではなく悪意、利他ではなく利己心に基づいていれば不安は弱まってくるようだ。自分の善悪の基準を、その場その場の対人関係に求めていれば誰だって不安になる。なぜならその場その場に居合わせる人間は十人十色、善意の基準も異なるのだ。人は変われど常に自分の基準に率直ならば誰にも振り回されることはない。その結果人が離れたとしても仕方がない。自分は善に執着するあまり他人が離れるのを異様に恐れたが、それももうどうでもいい。善処はするが、それでも離れるなら仕方がない。まず自分のことが大事だ。自分が完成されてくれば、不安が弱まり、自分以外のことを判断する余裕も生まれてくるだろう。そしていつか模倣ではなく本心から社会と向き合うことができるかもしれない。