人生

やっていきましょう

242日目

生活習慣を改めて1週間が経った。体調に微妙な変化が生じている。まず落ち込むことが少なくなった。落ち込む要因と出会う頻度は以前と変わらないが、翻弄されることがあまりなくなった。深刻に受け止めるのでなく、軽く受け流したり、避けたりすることができている。翻弄されるだけ無駄と自覚するようになり、別のことに目を向けられている。

健全者の多くが精神の不調に陥らないのはまさにそのためだ。彼らは選択肢を多く持っている。ひとつの不安要素だけでなく、安心できる要素も持っている。選択肢が限られている場合、そこに不安要素があっても報われる何かを期待してある程度我慢しなければならないが、選択肢が複数ある場合にはそこに留まる理由はない。

たとえばゲームでうまくいかずイライラしていても、それしか自分のストレス発散法といえるものがないのなら、しぶしぶ再挑戦する他ないだろう。他に手段は知らないが、そこにベットすることで今までの鬱憤を晴らすことができるかもしれないからだ。逆にひとつのことがうまくいかなくても、ランニングしようだとか、今は創作でもやればいいかと考えられるなら、その問題はあっさり切り捨てられる。

次に明日はどうしようと考えられるようになった。運動する前は今現在のことしか考えられなかったが、運動をしてから先のことを考える余裕ができた(弁解しておくとこれは現実的な視点ではない。自分の自尊感情を高めるために明日は何ができるか、ということである。だから自分に都合の悪い現状については視野にいれていない。むしろ余裕が生まれたことでその現状を見つめなくなっている)。明日自分はどういうことにワクワクできるだろうか、ということを考える。それが何であれ、自分を前進させるものと考えられるようになっている。

それから物事に対して挑戦的になっている。今までは実力や自信もないのに無理して自分を奮い立たせていた。大抵の場合やせ我慢だった。それで失敗したときに大いに傷ついた。だが最近、自分の実力からいってできるかどうか分からない問題に対して、よし、じゃあ今日はやってみようと考えられるようになっている。それが成功しようが失敗しようが、なるほど、じゃあ次はこうしようと思えるようになった。

また総括的だが、物事の決断が早くなった。不安要素に直面したとき、関わるだけ無駄だと分かれば引き下がれるようになった。断っておくがそれはなんでも諦めが早いというわけではない。可能性が見えていて粘るべき部分については大抵粘り続ける(この見極めが以前より容易になっている)。それでも無理だった時には潔く退く。

こうしたら相手がどう思うか、不遜ではないか、もしこの方法でなにかを間違えたらどうしよう、失敗したらどうしよう。こうあれこれ悩むことは無駄だという人がいる。当時の自分はその意味がよく分からなかったが、今なら少しわかる気がする。悩んで何か好転すればいいだろうが、大抵の場合は自分の不安を大きくするだけで終わる。好転したことは一度もない(それでも自分は悩むことを完全には否定しない。悩むことは深い洞察とつながっている。外交的な人間と内向的な人間を比較すればわかる)。

ここから先は悩まないというラインを見極める。自分の場合、ある一定量悩み続けた時から思考のループに陥ることがある。ループに気づいた時点でそれ以上悩むことを止める努力をする。思考のループに陥る頃には、大体自分の中で出せる要素はすべて出している。

たとえば創作がうまくいかないと悩んでいるとき、最初のうちはうまくいかない理由をあれこれ考えられている。だがしばらくしたら、創作がうまくいかないというスタート地点に戻っていて、それはなぜかと考えはじめ、先に挙げた例をまたなぞることになっている(これは瞬間的なループだけでなく、たとえば1日ごとのループである場合もある。かつて自分はそうだった)。なぞる利点は記憶や認識を強化できるくらいだが、不安要素を強化したところで良いことはあまりない。大体出尽くしたと考えたらその材料を使って勝負をするか、材料不足と諦めて退くことにする。

とにかく問題をうまく対処できるようになっている。翻弄される前に選択肢を増やして受け流す。未来志向になり、無駄を省くようになり、挑戦的になっている。どれも運動していた頃に出ていた調子だった。これは良い傾向であるように思う。引き続き朝食・運動・風呂のサイクルを回したい。

 

(一方でこうした傾向に対する嫌悪感というものがある。Twitterなどでよく見かける、ポジティブ思考で暗さをまったく感じさせず、経験は何でも自分の学びと解釈し、不安要素は何でも切り捨て、明るい言葉だけを発散させているような人間の状態である。彼らは自分を騙すのに長けていて、生きることそのものに対する根源的な不安を無かったことにしている。自分は紛れもなく彼らを追随し、彼らのように前進しなければならないと考えているが、決して不安から目を背けない。価値の無謬性を保証するものはなく、確実な答えなど存在しない。不条理は存在する。突然の不運に見舞われることもある。それゆえに不安は確実に存在する。それを忘れてしまっては、自分がかつて誓った生存する覚悟を無下にすることになる)