人生

やっていきましょう

301日目

自分は独学ができない。自分の意思で何を勉強するかを選ぶことができない。一時の感情で選んだとしても、長くは続かない。何らかの外圧と危機感に晒されなければ、何かを学ぶ気が起こらない。

実際に独学している人間はいる。ということは自分にできないことではないはずだ。「どのように」すればいいかは分かっている。勉強の要領は10代のときにおよそ経験してきて大体分かっている。問題は「なぜ」自分はそれをしたいのか、ということに答えが出せていないということだ。

以前触れたように、その対象が欲望を喚起させないならば学ぼうとは思わない。また、成功体験から更なる成功を求めなければ持続しない。たとえば自分は「クイズマジックアカデミー」のことわざ検定で高得点を狙いたいという野心が唐突に芽生えたことで、ことわざの勉強を1週間持続させた。もしその欲望が高じて全国のトップランカーになりたいと思ってしまったら、1週間どころでなく1ヶ月、半年は勉強するだろう。だが自分はそうなる前に「ある程度の」高成績で満足してしまった。それ以来一切勉強していない。

ゲームや競争の動機付けは以前に比べてイメージしやすくなっている。今までは自分はまったくの無能であって、勝つことへのイメージがまったくついていなかった。この1年である程度成功した経験を積んだことで、何のためらいもなく勝つことは面白いことだと思えるようになってきた。

だが独学は少し違う。独学は競争相手に勝ちたいという思いから必ずしも生まれるものではない。純粋な知的好奇心、自分のキャリアを積むために必要だからという野心、あるいは金になるからというドライな感情、なんでもいいのだが、そうした多様な欲求から独学というアクションに繋がるのではないか。自分に限っていえば、独学はゲームや競争に似た動機を得ることが難しいと感じている。そこが自分の障壁なのだろう。

要するに自分の欲望を喚起させるスイッチが極端に少ないのだ。生理欲求を除けば、今の自分の欲望はゲームに勝つことくらいしかない。かつて自分も人並みに多様な欲求を持っていたが、ひとつひとつを自分で殺し、ついにはほとんどなくなってしまった。だが欲を抑制したことで不安が消えたわけではない。むしろ欲望が今まで誤魔化してきた不安をより明確に浮き彫りにする結果となってしまった。それに欲が萎えたことで不安を克服する力も弱まってしまった。それが自分に未知の状況に対する過剰な恐怖を抱かせ、独学を回避させる方向に向かわせている。

おそらく学ぶことは不可能ではないだろうし、学んでいるうちに関心が戻ってくるだろうと思う。だが自分は学ぶことを躊躇っている。未知の情報に触れて自分の心の平穏を乱したくないという思いが強くなっている。かつて自分は未知の情報を積極的に学ぼうとしていたが、今は自分の心を安定させる見慣れた光景がほしいのだ。未知の情報に対する不安か、学んだことが自己肯定感に結びつかないことに対する失望か。すべては虚しいという決めつけか、所詮は見栄で学んでいるにすぎないという皮肉な感情か。あるいは単純にゲームの方が面白いという思いからか。

根本を探れば、やはり自分が勉強してきたのは他人に自分の姿勢を納得してもらいたかったからという思いにたどり着く。他人の目を気にして不安でしかないから、勉強をして不安を解消しようとしていたのだ。だが他人の目などもはやどこにもない。自分に期待している人間は誰もいないし、自分の失敗するのを待ちわびている人間もいない。自分の行動を観察し、評価している人間はどこにもいない。自分はただ虚像を恐れているにすぎない。

長い年月をかけて形成されてきた自分の歪んだ認識を元に戻すのは容易ではない。自分の価値観を形成できないという問題は、自分の力で学習することができない問題へとつながってくる。人から言われたことをこなすことはできても、自分で主体的に行動することはできないという、あの典型的な無能人間に自分はなっている。そして自分の歪んだ価値観がその状況を変えがたくしている。

自分は学ぶ意欲が生まれることをただ黙って祈ることしかできないのか。何か打つ手はないのか。何もわからない。1年経っても答えは出てこなかった。結局は自分の不安を振り払い行動し続けることで活路を見出す他にない。そこに幸運を期待するのは愚かだ。だが行動する以外にもはや道が残されていない。このまま何もしないでいても変わらない。