人生

やっていきましょう

311日目

「調子はどう」と訊かれたときに「調子とは」と返してしまう人がいる。大抵の場面で「調子」に関する厳密な説明は事前に施されることはない。だから与えられた情報がまったくのゼロの状態での反応としては妥当だといえるのかもしれない。とはいえ問いかけた人からすれば「調子はどう」という質問は、相手の近況を確認したいという狙いがあり、彼からすれば「まあまあだよ」とか「最近あんまよくない」とか「すごく調子がいい」といったものが反応として想定されている。問いかけた人はそうした応答から話題を広げていって会話が弾むことを想定して投げかけている。

あまりに単純なことかもしれない。だが中にはそれが難しいと感じる人もいる。自分がそうだ。自分は明らかに「調子はどう」と訊かれたら「調子とは」と返してしまうような人間だ。今でこそ適当にはぐらかすことを学習したが、依然としてどのように答えたらいいのか分かっていないでいる。なぜなら自分の調子は変化しやすく、厳密に今の状態の程度を語ることができないからだ。それに、その調子がいつのことを指しているのか断定することができない。現時点での調子なのか、ここ最近を踏まえての調子なのか。また調子というのが何の調子なのか分からない。勉学の調子なのか、体調の調子なのか、今自分がやっているゲームの調子なのか。それぞれの調子に対して、時には矛盾する別個な評価が可能なため、回答に窮する。だから禅問答を投げかけられているような気分になってしまう。

もちろん他人にそこまでの意図はない。粗い認識で問いかけたのであり、粗い解答を望んでいる。最適な答えなど望んでいない。深い意図もない。だから自分がもし、先述した疑問に応える形で「・・・調子とは何の調子ですか。勉強の調子なら問題ありません。生活習慣は悪いので問題があるとおもいます。感情面では安定していますがたまに崩れることがあります。それともゲームの話でしょうか。ブラッドボーンは死ぬことが多いですがうまくいっています。スマブラはスランプ気味で調子が悪いです。いったいどの話をしているんですか」などと答えようものなら、相手は反応に戸惑うに違いない。これだけの選択肢を与えられて、どれが相手の望んでいる解答なのか絞ることはできないし、こうした無愛想な反応が相手に対する不満への意思表示と解釈されてしまいやすいからだ。こうした手合いには適当な返事をいって誤魔化して今後は極力関わらないのが無難だろう。彼はそれゆえ集団から孤立するのだ。

会話は単なる情報共有でなく、感情の交流を目的としているところがある。会話の内容よりも、互いの反応を楽しんで親睦や連帯を深めるという意図がある。間違っても相手の「調子」に対する学術的な関心からではないだろう。だが「調子とは」と返してしまう人にはそれがわからないのだ。これは個人的な経験から同情できる。自分は誰かに問われたとき、自分が試されていると解釈する。それはクイズの問と答えの関係に近い。間違えたら不正解であり、通常間違えないことが要求される。正解を答え続けることで自分に対する否定を防いでいるのだ。

おそらくこの見方はひとつの有効な態度だろう。テストでは解答が用意されており、受験者には適切な過程を踏んで正しい答えを導き出すことが求められている。正確な情報のコミュニケーションが要求される場面では、とくにこうした態度が有力になってくる。議論やディベートでもそうだ。明確な答えはないにしても、間違えないこと、答えを出そうとすることが求められる。相手の問から推測可能な根拠に基づいて答えを出すというのが常識となる。アカデミックな分野でもおそらくこの認識が基本であると思っている。

だが会話というのはテストでも議論でもない。通常は相手を試して行われるものではない。自分と相手の関係性の中に生まれる共有可能な考えを、見つけたり強化したり、あるいは広げたりするのが狙いであるはずだ。スマブラが面白いという話をしたいときに、本当にスマブラは面白いのか、スマブラのどこがおもしろく、どこがつまらないのかを批評家の目線で議論するのは的外れだ。その的外れを人々は「空気が読めない」と形容しているのだ。

自分はここまで言語化してもまだ納得がいっていない。こうした都合には理解が及ぶものの、相手が自分と共有可能な考えを強化したいと思って近づいてきて、それを感情的に楽しむことができるということがあまり信じられない。未だに相手がどういう意図で自分に近づいてくるのかということについて自信が持てない。あまりに分からないので、まるで宇宙人を相手に会話をしているような感覚に陥ってしまう。

こうしたものの見方は、「調子とは」と答えてしまうような同類(しかもそうした自身の傾向に気づいていない)を間近に見たということ、また自分自身が同じ話題を共有して盛り上がった経験を多少は積んだことで多少は相対化された。だがそれでもまだ心から信じられていない。本当に相手と話が通じるのだろうか。

自分はなぜ「調子はどう」に答えられないのか。おそらく「調子はどう」と問いかけてくる人間、またはその背景にあるコミュニティの了解を自分は知らないからだ。それは言語上で認識できる情報というよりは、体感として分かるかどうかということだ。自分は感情交流と共通意識の確認を会話の目的とする人間とそのコミュニティとの接点を極力避けてきた。だから分かるはずがないのだ。

自分はなぜ「調子とは」と答えやすい傾向にあるのか。それはこうした暗黙の了解で、どう解釈して良いか分からない問を投げかけられたとき、試されていると解釈し、考えられ得る限りの選択肢を洗い出して妥当な解答を導き出そうとしすぎるからだ。自分の発信は相手に情報を伝えるということを前提としていない。理解不能な状況に対する淀みない不安、際限のない防衛措置の結果がこの情報量の壁であるといえる。これはコミュニケーションとはいえない。自分を守るために行った意思疎通の拒否でしかない。

適切な情報量で話題を構築しなければ会話ができるわけなどないし、それを無理やり通そうとすればパニックになるのは当たり前だ。それでも我慢して貫き通せば、不安を処理できないまま暴走し、常識を超えた明後日の方向の答えを出してしまう。それで相手は理解できず、自分も理解できず、自分の中で話は通じないという信念が強化される。それで自分は試されており、問答を誤れば叱責が来るという誤解を妄信し始める。さらに妄想をこじらせた結果、不安を回避するためにたった1度の応答で正答にたどり着かなければならないと自分を追い込んでしまう。それが更に不安を悪化させる。

自分が気を付けなければいけないことは、不安に駆られて一度に多くのことを考えすぎないことだ。深読みもできるだけ抑える。相手がどういうつもりでそう言っているのかを少しだけ考える。おそらくほとんどは敵意からではないということを認めるだろう。咄嗟の対応が難しければ誤魔化す。経験から徐々に勘を養っていく。

一番問題なのは試されていると解釈しすぎることだ。ひとつひとつの言動を誰かが評価しているわけではない。していたとしてもそれはそれほど深刻な評価ではない。あまりに試されていると考えて不安になりすぎていると、本当に試されている場で委縮して何も考えられなくなってしまう。自分の面接がそうだった。何も考えられず、答えられず、答えられなければ幻滅されるという妄想がついに現実のものとなり、頭が真っ白になった。

今は歪んだ認識を調整することだけを考えたい。もはや「調子はどう」などと訊かれることもないが、相手が自分に対して何か質問を投げかけたとき、深刻になりすぎないようにしておきたい。今の自分であればおそらくそれは可能だ。自己防衛のために多くを語り過ぎない。情報量を適量に抑えるよう意識したい。