人生

やっていきましょう

話の理解できない人間がいたとする。相手の話を聞こうともしない。何事も曲解し、思い込みを修正しようとしない。あるいは何か特有の偏見を持っていて、その内側にいるということに自覚がない。

もしこうした人間に遭遇した時、仮にその人が自分に向かって自身の傾向を露わにしたときは、自分はその誤りを正そうとするだろう。自分がブログで自分自身に言い聞かせるように、こういうところに問題がある、だから解決せよ、と。しかしおそらくその種の人間には通じないだろう。こんなことは誰しも良くあることだろうが、あまりにそれが酷い場合には、自分は自分を守るために相手を人間扱いしなくなる。

とはいえ、最近ふと思ったことだが、彼らが人間ではないというのは誤りだ。彼らは彼らなりに不満を抱き、葛藤する。それはこちらが理解できない形かもしれないが、何かのきっかけがあって、そうした行動が出てくる。

自分は問題の整理と解決という側面ばかりに目を向けてきたが、彼ら自身の人格を尊重するということができていただろうか。理解できない存在を理解できないまま尊重するということが。変な物言いになるが、その人の限界ゆえに発せられる不十分な主張を、その構造的な欠陥を冷笑することなく正面から受け止めることが自分にできていたのか。

こうした人間に対して、自分はどう接すればいいのか。答えは出せない。自分は聖人君子ではない。努力はするが、背負い切れないこともある。正直拒絶するのが一番楽だと思う。ただ、少しだけでも相手のことを受け入れられるよう考えてみることは無駄ではないと思う。

これは相手にすべて調子を合わせろということではない。自分はかつてそれをやったが、相手の(無自覚な)歪みを正面から受けてしまい、苦しい思いをした。そうではなく、相手のある側面は受け入れ、ある側面は拒絶する。その判断や評価を歪ませない。ただその上で、特に拒絶したい側面の方だが、それを相手の理解不能な一面として尊重する。それが合理的でなく、またそれがあるために問題が一向に解決しないと分かっていても、その人間がそのままでいい思うのであれば、自分の利害に深刻な影響がない場合には受け入れる努力をする。

自分は難しいことを言っているという自覚がある。ただ、他者の拒絶というのが必ずしも万能ではないということだけは自分に言い聞かせておく必要がある。