人生

やっていきましょう

326日目

セリフ作りに関しては以前から無駄が多かった。ひとつの違和感を見過ごせず、同じ場面のセリフを何度も書き直すという作業を繰り返してしまう。

セリフにおける違和感とは、自分の場合、情報量がその状況、その場面に伴っていないものを指す。たとえば一般的に言われるタブーのひとつにセリフが説明口調であることが挙げられる。これは目の前の相手に投げかける会話にふさわしい情報量ではないということが問題となっている。

人間同士が互いに面と向かって交わす情報量などたかが知れている。むしろそれほどの情報量を伝達するのに会話は向いていない。せいぜい一つのトピックを共有できる程度か。すべての情報を伝えようとして何でもかんでも言葉で埋め尽くすという会話には違和感がある。少ない話題で会話に余裕を持たせておくことで、そこに相手との共有のしやすさが生まれたり、感情の交流に余裕が生まれる。

情報量が過密であるセリフというのは、相手の都合を考えたコミュニケーションであるとはいえない。自分が用意している情報のすべてを、相手が一度に許容できるだろうという自分勝手な都合でしかない。自分もかつて中高大学生時代、このことにまったく気づかず大変な苦労をした。自分は自分が思いつき想定されうる限りの情報をすべて相手に伝達しなければならないと思っていた。そこに情報の不備があると恐ろしく、それでは相手と意思疎通ができないと思っていたからだ。しかし情報量を増やそうとすればするほど自分の脳はパニックを起こし、ますます相手と意思疎通ができず、それがまた恐ろしく、結局人と関わることをほとんどやめてしまった。

今思えば単純な話なのだが、会話と文章では大抵の場合ほとんど目的が異なっている。会話では相手の表情や声色、特定の趣味や共通の活動を通じて、自分と相手がどれだけ感情交流ができ、互いが同じ方向を向いていられているか(あるいは向かせられているか)を確認し合うことが目的だ。したがって目の前の相手を想定したものであることが多い。そのため情報量は少ない方がよく、共感しやすい表現を選んだほうがよい。

対して文章というのは、自分の考えをまとめることに向いている。自分が何を考えてきたのか、どういう風にそれを感じたのかというブログ、あるいは具体的な資料をいくつかまとめひとつの結論を報告するレポートなどは、文章であったほうがいいだろう。計算や小説などもそうだ。目の前の相手ではなく、広い意味での第三者を相手に情報伝達することに向いている。

(ところで文章の利点は常にある角度から見たある情報をそのまま頭の中に留めておかなくて良いということでもある。書いて忘れた情報も、それを見れば再び思い出せるし、同時に以前の時とは別の角度で自分の考えを検討しなおすことができるかもしれない。だから情報量は(冗長でなければ)多くても構わず、共感的な文章を書く必要もない)。

とはいえ会話であるならば、会話の作法に従わなければならない。小説同様、記録や分析に適した文章だからこそ説明口調になりやすいという傾向を一旦抑え、会話を意識したセリフに構築しなおさなければならない。それはつまるところ先に述べた通り「目の前の相手を想定する」ということだ。王様は勇者に魔王を倒すために必要な情報を過剰に指摘するべきではない。彼が伝えるべきトピックは魔王を倒すという目的、それが必要な理由程度の情報であり、その他の枝葉末節は部下の大臣か、街のNPCに任せ、あるいはプレイヤー自身にプレーの中で学習させたほうがよい。

これだけでは不十分だ。会話の最も難儀なところは、必ずしも情報伝達などという仰々しい目的があるわけではないということだ。学校でクラスメートと会話しているとき、自分は相手と同じ方向を向けていられるか?などと考える人間は(おそらく)まずいないだろう。もう少し粗い解像度で「面白いことがあって伝えたいから」とか「ふと思ったことを言いたくなった」といったレベルで考えるのではないか。自分だったらそうする。つまり会話は目的を意識せず、ほとんど偶然的に起こる話題で繋げられている。

以前何度か言及した記憶があるが、創作物特有のセリフのクサさ、違和感というものは大抵この偶然性を意識していないもの、つまり1人の作者が場面と登場人物を考えてセリフを言わせているということが透けてみえるときに感じる。それは他人の創作物というよりは、自分の創作にも鋭く感じてしまう。どこか登場人物が予め書かれた台本を読まされているように感じられてしまう。

登場人物にとっては、後の状況はランダムに起こるものだ。だから何が起こるかわからないし、それゆえの不安もあるはずだ。だが作者自身は、次に何が起こるかをだいたい知っている。だからその目線で、うっかり登場人物の判断や考えを語らせてしまう。作者は万能な神の目線で、説明口調でこうすればいいよとつい言いたくなってしまうし、安易に登場人物の誰かに憑りついて、背景の設定を登場人物に語らせたくなってしまう。それは仕方のないことなのかもしれないが、読んでいる側からすると登場人物が登場人物でなく作者の代弁者でしかないと思ってしまうと興ざめしてしまう。ましてそれが説教臭くなると最悪だ。

この問題をうまく言語化できていない。自分でも曖昧にしか把握できていない。だが問題としては確かに感じている。自分はこのくさみを無くすために偶然的な会話を「装う」ことにしている(本当に偶然的な会話を待っていたら永遠に完成しない)。自然な会話の流れからさりげなく自分の意図した目的を忍び込ませ、登場人物たちに目標意識を抱かせるということをどうにかできないかと考えている。だがほとんどうまくいっている気がしない。腐臭はどこからも漂ってくるし、やはり作者の説教臭さから抜け出すことができない。

小説なら長ったらしく会話を書くこともできなくはない。だがゲームの文章は、それほど多くの情報を1度に含めてしまうとそもそも読んでもらえない。だから少ない情報量の中で必要な情報をできるだけ凝縮して伝える必要がある。より多くの情報量を凝縮しすぎると、聖書のような抽象度の高い言い回しになってしまう。それではうまく伝わらない。だが情報量を少なくしすぎても違和感がある。だから適度な匙加減を見計らう必要がある。

こうした考えが錯綜して会話作りがうまくいかない。何を語らせるか、そこにどういう意味をもたらすか、それは登場人物の主観から発せられたものであるか、こうしたことを考えすぎて以前はひどく心を病んでしまった。今回はあまり深入りしないことを決めた。そこまで考えようとせず、簡単でいいという心構えで取り組みたい。