人生

やっていきましょう

330日目

精神が不安定になっている。昨日の深夜から今日にかけて意識が混乱していた。焦点が定まらず動悸が止まらなかった。

将来と過去のことを考え出すと恐ろしくなる。過度なストレスを自分に課してきたこと、自分がやりたくないことを自分に強いたこと、それらは結局中途半端に終わり、今では何の意味もなさないこと。

自分があれだけ頑張ってきた、というのはおそらく偏見だ。自分はそれほど頑張っていない。頑張ったという幻想を自分に見せているのは、孤独や無理解、あるいは期待という過度なストレスに対して黙って何年も耐え忍んできたことにすぎない。頑張ったのではない。問題から目を背け何もしなかったのだ。

また他人や世間のことを考えだすと恐ろしくなる。どういうわけか自分の目には不幸を嘆き、ストレスでおかしくなった人間よりも、今の幸せを享受し共有しようとしてくる人間ばかりが入ってくる。その中には、かつて自分が捨て去った趣味や憧れや価値観を持つ人もいる。そこに黒い感情が静かに沸いてくるのを自分は確かに感じている。

他人は悪くない、悪いのは自分だという常套句は何度も繰り返した。その言葉のうさん臭さは見逃すにしても、自らに向けた警句としては一定の妥当性を持つ。結局リスクを恐れて機会を見逃した自分が悪いのだ。自分がどれだけ人生において不利であり、頭が悪く、心が弱く、価値観が人と違っていたからといって、何事も挑戦してはいけないという法はどこにもなかった。自分は他人の目を恐れ、失敗を恐れ、怯んでしまった。その事実の積み重ねが、まさに今の状況を作ったのだ。

毎日自分を否定しなければ、自分に自信が持てたかもしれない。誰かと関わり続ければ、社会が期待する「似た者同士」になれたかもしれない。誰かに頼ることができれば、自分のキャパを超えた努力をしようなどとも考えなかったはずだ。だが考えてもきりがない。もう一度人生をやり直せたとして、結局は同じような顛末を辿るだろう。そしてそれを無理に変えようとしても、結局は自分には変えられなかったことを悟るだろう。

自分は人が恐ろしかった。失敗が恐ろしかった。心が不安定になりながら、常に自分と戦い続けた。時には無謀な賭けに出て、それが失敗する度に敗者の孤独と無力感を味わった。いつしか挑戦を捨て守りに入り、何かの偶然に縋るほどになってしまった。いつかこの苦痛に終わりが来てくれと願いながら、何もしない毎日を送ることになった。そのようにして、もはや自分が何を望みどうしたいのか考えることすらできなくなった。そして最後には自分の願望をフィクションと称し、存在しない動機に従って空虚なロールプレイを行っている始末だ。

もはや自殺という選択すら、自分の中では何の意味も持たない。自分が死んだから何になるというのか。痛みがそこで感じられなくなったからといって、それが何なのか。主観をある理想の境地に昇華させようにも、自分には元々主観があって無いようなものだ。自殺が救いであるというロマンを自分はついに抱けなかった。自分は生きることも死ぬこともままならない。

自分には何もない。何も希望がない。どうにか自分を誤魔化そうとして、毎日努力と問題解決という現実逃避を行ってはいる。その時その瞬間は気分が良いかもしれない。だが今日のような強い不安に襲われると、それらが一時の浮かれた気分であったことを知る。